「どうしてピカソは、あんなような絵を描くようになったの?」と、前から不思議に思ってたんですが、サンフランシスコ近代美術館でオープン中のステイン・コレクション展(Steins Collect)で、この謎が解けた!
ゲルトルート・ステインは、オークランドで少女時代を過ごした作家。サンフランシスコ市電事業で成功したステイン家の長女だった彼女は、大学卒業後、仲の良かったお兄さんのレオとヨーロッパへ行き、パリに住み着きます。
1904年から、絵好きの二人は絵を購入しはじめます。マチスが展覧会に出品して大ヒンシュクを買った「帽子をかぶった女」を、「素晴らしい!」と購入。
写真: 帽子をかぶった女
以降、今こそ「印象派」と呼ばれ、人気を呼んでいますが、当時はあまり評価されてなかった、マチス、ルノアール、ボナード、セザンヌなどの絵を次々と購入。ピカソと知り合った後は、特にゲルトルートが、ピカソの絵購入の比重を増していきます。
レオとゲルトルートのコレクションは静かな評判を呼ぶようになり、世界中からの問い合わせが相次いだため、毎週土曜日に、アパートを一般公開するようになります。レオとゲルトルートは別居を構えてからも作品を収集しつづけ、このように集められたスタイン家の絵をサンフランシスコに再集合させたのが、今回のステイン・コレクション展。
この展覧会、見応え有りますが、ピカソの絵が年月を経てどのように変化してゆくのかを見せてるのも面白いところ。
ピカソはゲルトルートのところで初めてマチスの「帽子をかぶった女(Woman with a hat)」を見て、激しいショックを受けます。そして「ボクの方がマチスより絵は上手。マチスとは反対のことをやる」と、茶系統の色ばかりを使った絵を描きはじめます。画家名がついてなかったら、すぐにはピカソの作品とは思えないものばかり。
ピカソは歌麿や北斎の絵にも影響を受け、着物ならず、ドレスを引きずる猫背の女性を「スープ」という作品で描いたりします。
1907年にマチスが描いた「青い裸婦(Blue Nude)」は、ピカソに(帽子の女が驚きが右パンチなら)左パンチをかませます。伝統的なヌードとはぜんぜんちがう、「乱暴」な体のフォームにショックを受けたのかもしれません。
ある日、ゲルトルートのアパートへ向かう途中、マチスは古道具屋さんのウィンドウのアフリカ民芸品に目を留めます。「面白い形だなー」とさっそく購入し、アパートへ着くと、そこにはピカソが。二人は人形の奇妙な形についてディスカッションを始めます。
その後に描かれたのがピカソの「眠る女」。ピカソ的なこの絵、明らかに、アフリカ民芸品像特有のデフォルメの影響が見られるじゃありませんか。
写真: 眠る女 (1907)
ピカソは、きっと、学生の頃から「新しい何か」を模索していたのだと思います。そしてマチスや日本の版画師やアフリカの民族美術に出会ううちに、伝統的ヨーロッパのフォームが絶対的な、唯一の美のフォームでないことに目覚めたんだと思います。それが彼を「こうじゃなくちゃいけない」という内的抑制から解き放し、「自分の好きなフォームならそれでいい」という方向へ歩ませたんだと思います。
余談ですが、そういう意味じゃ、シリコンバレーも同じ。シリコンバレーには世界中の人が集まっています。アメリカ人やインド人や中国人と一緒に働いているうちに、「ああ、そういう見方もあるのか。」そして自分の発想が日本というローカルな場で育まれ、形成された「反応回路」というか、「道順」を経て生まれてきたものであることに、それこそ「ある日突然」、わりとあっけらかんに気づきます。
考え方の「道順」も人間の作った文化の一つ、ですからいつでも変えられるもの。こんな当たり前のことにどうして今まで気づかなかったの?!
日本で育くまれた発想は、良きも悪くも自分の考え方の原点。そこに何かを自由に結びつけたり、「道順」を変えられる可能性に目覚めさせるのが他文化。他文化は、自分の中に(必然的に学習で)形成された考え方の「回路」を変えて、自由に組立てる「契機」を与えます。
それはインド人も中国人も同様、彼ら独特の「文化」があるということは、その中で形成された独特の「反応回路」があるということでしょう。シリコンバレーは、いろいろな考え方の回路がぶつかるところ。そしてまた壊れるところでもあります。だから新しい発想が生まれやすいんだと思います。
この展覧会、9月の半ばまでオープンの予定です。なお、ここでリンクしてる絵は、この展覧会で全部見られます。
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