2010年11月22日月曜日

カリタ・マッテイラの「マクロプロス事件」

レオシュ・ヤナーチェク(Leos Janacek)の「マクロプロス事件(Makropulos Case)」というのが順等なんでしょうが、カリタ・マッテイラ(karita Mattila)に敬意を表して、上記のタイトルにしました。

ノルウェー人ソプラノのカリタ・マッテイラは、昨今わりと頻繁にサンフランシスコ・オペラに来るんですが、評判負けというのが、私の感想でした。

ところが、今回の「マクロプロス事件(Makropulos Case)」で演じたエミリア・マーティはダイナマイト・パフォーマンスで、今までの印象は帳消し。演技力抜群の、別格オペラ・シンガーへと認識を新たにしました。今回も、一応見ておこう程度で、見たんですが、すでに有名な歌手でも、突然、飛躍して、自分を乗り越えるってこと、あるんですね。それも感動しました。

オペラの筋はというと、世界的なオペラ歌手、エミリアは、実は御年337才。ハプスブルグ家の錬金術士だった父が調合した「不老」の薬を無理矢理飲まされたため、長生きしてるんですが、再び、薬を飲まなければならない時期がやってきました。

薬の処方箋は、昔々(100年前頃)、彼女の生んだ子供を相続人に指定した遺言状と一緒に、タンスの引き出しにしまってあるんですが、そのタンスは、自分の孫にあたるアルバートが相続争いをしている家の中、そして家の現住人は、敵方のプルス男爵。

エミリアはアルバートを助ける気はさらさらないんですが、処方箋を得たいがために、遺言状のありかを教えようと、アルバートとその弁護士に近づきます。そこからこのドラマは始まります。


写真:美しく魅力的なエミリアと、向かって左から、エミリアが自分のおばあさんとは知りようもなく、彼女に恋するアルバートと、やはり彼女に惹かれるプルス男爵。その隣は弁護士のアシスタント、弁護士、プルス男爵の息子の恋人のクリステナ。息子はエミリアに一目惚れ、父親の男爵がエミリアと関係を持つのにショックを受け、自殺してしまいます。

舞台は、白い壁に、黒のペン書きのイメージが基調。エミリアのドレスも白で、全体的にフレッシュな感じで、ファッション誌、ボーグ的な味のある、舞台となりました。
 写真:ウィスキーを飲みながら、エミリアは自分の秘密を明かします。

カリタ・マッテイラは、マノン・レスコーのように、すでに設定されてるような役をやるより、自分でもっと創れ、演じられる部分のある役のほうが、彼女の持ってる力が引き出されれ、向いてると思います。

彼女のアクターとしての才能が光り輝いたパフォーマンス、さらにプルス男爵を始め、まわりのパフォーマンスが標準を上回り、またコミカルな部分もたくさんあって、思わず笑ってしまうオペラなので、お薦めです。
写真:弁護士事務所で出会うエミリアと男爵

初日のパフォーマンスのビデオクリップをリンクしておきます。

写真を見たい人は、こちらへどうぞ

ただし、英語の字幕を読みつけてない人は、見に行く前に、ネットで筋ぐらいは読んでから言ったほうが、楽しめると思います。

2010年11月8日月曜日

プッチーニの傑作「蝶々さん」と「芸者」のイメージ

今シーズンから新しいプロダクション(制作: 新しい舞台デザイン)になったんですが、こんなに違うかというほど、見られる舞台になりました。

日本人である私には、19世紀後半のヨーロッパが見た日本を、現代アメリカで再構すると、中華風日本民家になるという奇妙さがなじめないんですが、今回初めて、それはさておいといて、プッチーニのマダム・バタフライ(蝶々さん)に、ちょっとだけ心が開いたという感じです。

プッチーニが、同名のお芝居をパリで見たとき、蝶々さんがピンカートンを一晩待ち明かすのを、当時の最新照明技術を駆使して表現したのに感動。夕方が深夜になり、朝焼けがくるのを音楽で表現してみせると言って書かれたこのオペラ。

今回、光っていたのはピンカートン。演じたのは、ステファノ・セッコ(Stefano Secco)。ファースト役を演じたときは失望したんですが、今回のピンカートンは、いままでみた蝶々さんのなかで一番の出来! セッコ、汚名挽回。

今回のパーフォマンスのビデオクリップをここにリンクしておきます。

蝶々さんとピンカートンの新婚の夜。写真はSFgate.com and by Cory Weaver

芸者に売られた(多分武家か公家出身の)蝶々さんは15才でピンカートンと「結婚」、もちろん人身売買を正当化するための結婚ですが、蝶々さんは本気の結婚と思い込み、キリスト教に改心。このため家族から縁を切られたその3ヶ月後、ピンカートンはアメリカに帰国。

3年後、アメリカ人妻をたずさえて、ピンカートンが佐世保に戻ってくるのが、2幕目。

ピンカートンは自分を迎えに戻ってくると憑かれたように信じる蝶々さん。お金も底をつき、少しおかしくなってきてるんですが、それが子供っぽさと混じり合ってかなり不気味。それが絶頂に達するのが、プッチーニの美しい音楽が流れるなか、ピンカートンを窓辺で待ち明かす一晩。聴衆は、ここに怨念執念のおどろおどろしたものを感じるんでしょうが、アメリカに住む、現代日本人の私には、理解をチョウ超え。この場面は、以前の制作のほうが異常性を示唆する点で優れてたかも。

ギリシャ悲劇の「メディア」は、夫の血をひいている子供、三人を殺して夫へ復習しますが、蝶々さんの場合は、生き甲斐である子供の将来が確かなものになると、自分の生きる事には意味がなくなり、死を覚悟。

以前、アメリカ人の「芸者」に持ってる「おどろおどろしい」イメージについて、書いた事ありますが、今も執拗に変わらぬこのイメージ、プッチーニの「マダム・バタフライ」にも責任はあるんじゃないかと思い始めました。

ラ・ボヘメ、トスカと大ヒットを飛ばし、そのすぐ後に創作したのが、「蝶々さん」。今でも、世界で一番良く上演されるオペラのトップ10に入っているし、サンフランシスコ・オペラでは、トップ3に入ると聞いた事があります。蝶々さんを上演してれば、お客さんが入ってくるので、資金調達のため、2〜3年に一回、上演。こんな事情で、いわゆる西欧諸国で、「不気味な芸者」のイメージが定期的に、再生産されてるんじゃないでしょうか。

今回の蝶々さん、最初からあっと言わせる舞台のお披露目法、また蝶々さんを演じたスベトラ・バシレバ(Svetla Vassileva))も、2幕目では劇的な演技を展開するので、オペラファンにはお薦めです。

もっと写真を見たい人のため、新聞のレビューをリンクしておきます。

2010年11月1日月曜日

ドミンゴの「シラノ・ド・ベルジュラック」

さすがプラシド・ドミンゴ、券が売れて、久しぶりにサンフランシスコ・オペラハウスが満杯、観客の体温で、場内がいつもよりむっと温かい。

70才近いドミンゴ、主役のシラノ・ド・ベルジュラックをどこまで演じ、歌えきれるか、皆、興味津々だったと思いますが、さすが大物プロ、ここぞというところにエネルギーを集中させ、歌い演じきる事をちゃんと心得ているのに感心。


そして集エネの二場面に、私のソウルは感動したんですが、その前に、ちょっと説明。

シラノは剣豪で詩人、哲学者でもあるという、大変、優れた実在の人物なんですが、醜い鼻のため、いとこである、美しいロクサナに愛を告白する事ができません。

そんな気持ちはつゆ知らず、ロクサナは、シラノの部下の兵士で、ハンサムなクリスチャンに恋してることをシラノに打ち明け、危険な前線で、クリスチャンの命を守ってくれるよう頼みます。

クリスチャンもロクサナを好きなんですが、なんせ野暮なんで、気持ちをうまく表現できず、ロクサナの「精神」を満足させることができません。

クリスチャン:ロクサナ、ボクはあなたが好きです。
ロクサナ:  (うっとりとして)どのように好きなのか言って...
クリスチャン:どうって言われても... ムムッ... あなたを好きなんです。
ロクサナ:  だからどのように...? (ちょっとイライラ)

これに困ったクリスチャンは、シラノに相談。するとシラノは、「面白い事を考えついた。君は身体の『存在』をつらぬけ。ボクが言葉を考えよう。」つまり2人で分業して、一人の人間を演じるという提案をします。

(影に見えるのがクリスチャン)

ここで第一の感動の「ベランダ」の場面が始まります。夕闇のなか、シラノは影からクリスチャンに、二階のベランダに出てきたロクサナに語りかける愛の言葉を、伝えます。暗くなって誰が誰だかわからなくなると、シラノは前面に出てきて、ロクサナを愛する気持ちを、とくとくと伝えます。感動したロクサナが、ベランダから降りてくるすきに、シラノとクリスチャンは場所を交換。クリスチャンとロクサナは熱烈な愛のキスをかわします。



結局2人は結婚するのですが、軍人のシラノとクリスチャンは前線に送り出されます。そして前線から、シラノは一日、二通、クリスチャンの名で、愛の手紙をロクサナに送り続けます。

手紙を読んで感動したロクサナは、「この手紙には、私が愛してやまないソウルが、久しぶりに感じられる...」と、危険を犯して前線を訪問。驚いたクリスチャンはシラノに、「ロクサナが本当に愛しているのは、ボクではなく、この手紙の書き主であるあなただ!」と悲しみながら告げ、シラノに真実を告白するようにせまります。

ところが、運命のいたずらで、その日シラノの書いた愛の手紙をふところにいれたまま、クリスチャンは敵の銃弾に倒れます。

夫の死をいたんだロクサナは修道院に入居。シラノは、決まった時間にロクサナを訪問する毎日を送ります。

クリスチャンの死の数十年後、シラノがいつもより遅い時間にロクサナを訪問。自分の死を予感しての最後の訪問なんですが、ここで、2つ目の感動の場面が繰りひろげられます。



ロクサナがふところからクリスチャンの血で汚れた最後の手紙を出して、シラノに差し出すと、シラノは手紙を声をあげて読み始めます。

ロクサナ:「もう暗くなって手紙が読めないはず、それなのに、なぜまるで手紙の内容を知ってるかのように読めるの?」
シラノは手紙を読み続けます。
ロクサナ:「もしかして、手紙を書いたのは、あなたなんじゃないかと思う事があるんだけど、あなたなの?」
シラノ: 「いいや、断じて私じゃない!」

否定を続けているうちに、椅子から転げ落ち、息をひきとります。最後まで、手紙を書いた事を強く否定して...

この場面には、私のソウルもタッチされ、思わず、涙がほほを伝いました。

私:「なぜ、死に際に本当の事を伝えないの?」

シラノの「醜い鼻」は、ほとんどの人が持っている、「劣等感」の代名詞だと思います。私たち、醜い鼻は持ってなくとも、さまざまな劣等感を持ってる事ってあります。

クリスチャンは「体」だけの存在だとしても「美しいマスク」を持った身体、「醜い」が「頭の良く教養のある」シラノと同じように、ロクサナを愛していたのだし、その美しい存在にロクサナは恋をしたのですから、2人に優劣はつけがたいところがあります。

ただ愛した対象が、「洗練された」階級のロクサナだったので、ロクサナの精神は、「洗練された」シラノの精神に感動し、愛したのだと思います。とすると、問題は、「劣等感」ということになります。劣等感のため、愛を告白できないけれども、自分の感情を表現したかったシラノは、クリスチャンの身体を使うという、「戦術」に出たことになります。

ロクサナに告白したとしても、シラノの思った通り、拒絶されるかもしれません。だけど、少なくとも、ロクサナは、「美しいマスク」か、それとも「洗練された心」かというチョイスがあったんではないでしょうか。そして、数十年という時間を、納得して生きる事ができたと思います。

とにもかくにも、私のソウルは、この二つの場面を、熱く、気高く演じたシラノに感動。心を動かせる歌の不思議をまたまた体験したのです。

ビデオクリップをリンクしておきます。

普通の日はまだ券が残ってるんじゃないでしょうか。券が買えれば、お薦めのオペラです。

サンフランシスコの新聞のレビューと写真はこちらで見られます。