2009年7月30日木曜日

サンフランシスコ交響楽団がドロレス公園でコンサート

サンフランシスコ・シンフォニーが、近所のドロレス公園で、毎年恒例の無料屋外演奏会。

「白鳥の湖」から、序曲、舞踏会のワルツ、4羽の白鳥、次に「ロミオとジュリエット」の序曲、お休みをはさんで、ベートーベンの「運命などを、異常に暑い日差しのもとで演奏。

芝にブランケットをしいてピクニックしたり、ビーチチェアに座ってワインを楽しんだり、居眠りしたり、踊ったり、指揮者のまねして指揮をしたり、大人も子供も犬も、思い思いに屋外コンサートを楽しむ、週末の午後となりました。



舞台のそばで聞いていた私は、頭からジャケットをかぶって日差しを避けながら、「バレエ無しの『白鳥の湖』もなかなかいいじゃない』と、十分にエンジョイしました。

サンフランシスコ市は、楽団の資金の一部を負担しているので、そのお返しとして、また、有料の演奏会に来られない人たちのために、年に2回ほど、無料屋外コンサートを開くのが慣例となっています。

こういう粋な催しをするサンフランシスコ、思い思いの出で立ちで集まる、粋なサンフランシスカン。だからサンフランシスコが大好きです。

なお、サンフラシスコでは、毎年夏に、スターングロープで、スターングロープ・サマー・コンサート・シリーズを開いてます。サンフランシスコ交響楽団の演奏は終わってしまったけれども、このサイトに行くと予定が書いてあるので興味のある方はチェックしてください。スターングロープはフォグで寒くなる事がよくあるので、暖かいジャケットを持っていた方がよいです。

2009年7月19日日曜日

お見事! おつりごまかし術


ミッション通り沿い(ミッション・ディストリクト)の、ある食料品店での話。

その1

買い物の支払いをしたとき、おつりが間違っているのに気がつきました。その場で3回、おつりを確かめた後、レジ台の後ろの店主のおじさんに、軽い気持ちで、「おつりが足りないわよ。もう10セントちょうだい。」

するとおじさん、私を完全無視、つぎの人のレジを始めました。変なの。

その後おもむろに私の方に向き直り、レジ台に散らばっているお客様用レシートから私のレシートを見つけ、それと私がおじさんの掌に返したおつりを見くらべるようなふりをした後、「なに言ってるんだよ、おつりはちゃんとあるじゃない」と、私の手のひらにおつりをのっけました。すると、なかったはずの10セントが、あるんじゃないですか!

このおじさん、おつりを間違ったんじゃなくて、ごまかそうとしたんだなってことに、そこでハタと気づきました。

だいたい始めに、いつもになく、「ハイ」とレジ越しに声をかけてきて、じっと私の目を見つめたときに、ちょっと変とは思いました。

不快でしたが、手品のようにあざやかな技には感心。ばれたとわかった途端、次のお客のレジをしてレジ台を開け、10セント玉を余計にとった後、お客様用レシートを身を屈めて探すふりをしながら、小銭をうまく、私の返したおつりの25セント玉と5セント玉の間に混ぜて、「ほら、間違ってないじゃない」と、私の前に手を差し出した「事後処理」。これは相当年期のはいった技、しょっちゅう「練習」してなければできない技です。

その2

その後、そのお店はさけてましたが、どうしても必要なものがあったので、仕方なく行きました。

その日お店は忙しく、レジの前にお客の行列。すると週末訪問しているような雰囲気の若夫婦のお父さんぽい人が、ささっーとレジ台に入ってきて、私のレジをしました。これが驚きな事に、同じ手つきで、10セントごまかしのおつりをくれたのです! そのときは何も言わず、帰ってきました。

しかしなんと言っても、「親子2代の技」には、いろんな意味でうなってしまいました。ミッションはメキシコ系アメリカ人の町。サンフランシスコでは一人当たりの収入が一番か二番目に低いところです。

10セント玉(ダイム)は小銭の中では一番サイズが小さく、確かにごまかすには最適のコイン。

この食料品店もメキシコ系。生き延びる技としてか、「生活の知恵」としてか、父親がまだ子供だった息子に、手品のような技と、人を見る技術(この人はだましやすい)を伝授したんでしょう。「10セントくらいごまかしたっていいんだよ、どうせ他のところで無駄使いするんだから」なんて言いながら... ちなみに、私は通常、小銭のおつりはチェックしません。

この事件以来、わたしは雇われ人のレジがいるお店へ、買い物に行くようになりました。

2009年7月12日日曜日

スベトラーナの「ラ・バヤデール」 その2


前々回に、「スベトラーナの『ラ・バヤデール』」について書きました。

そこで、『第二幕の、ガムザッティ姫とソラール... その息の合かた! ジャンプしても床についてもゴムひもでつながってるかのようにボディ間の距離は一定、二人の曲げた腕や体とかが、当たり前のように同心円を描く」と書きましたが、それは、こういうことです

ガムゼッティ姫を演じたマリア・アレクサンドローバは、踊り方が正確で、優雅で美しいです。特にジャンプの美しいこと!

「つぼの踊り」と私が勝手によんでいる、とてもかわいいソロ。

私の見たのとは違うプロダクションなんですが、こちらを見ると、つぼの踊りのストーリーがもう少しよくわかります。これはキロフバレエです。

トップのビデオ三つは一年前のアップロードですが、私がバークレーで見たのと同じプロダクション(踊り方、舞台装置、衣装とも同じ)。バヤデール役を除いて、同じキャストで上演されてます。

2009年7月5日日曜日

ヴェルナー・ヘルツォークの「最果ての出会い」


ヴェルナー・ヘルツォーク(Werner Herzog)の2007年の、「Encounters at the End of the World」、「最果てでの出会い」とかってに訳しておきますが、フシギに面白いドキュメンタリー。 

「ノーマル(普通)」とノーマルじゃなくなる境目を、南極という極限で迫ってみるということだと思います。

普通の科学ドキュチックに始まるこの映画、南極でトマトを育てている温室管理人(言語学専攻の元大学院生)をインタビューするころから、「なんとなく変わってるかな?」と、思い始めます。

先走っていうと、ドキュメンタリーの謎というか、頂点は、人間ではなく、ペンギンが演じているというか。

ペンギンはメスが卵を生むと、雄が卵を足元で暖めます。メスは海に戻り、エサを食いだめし、数ヶ月後にオスのところに帰ってきて、卵の暖め役を交代します。おなかの空いているオスは、待ってましたとばかりに、長い行列を作って、数マイル先の海に向かって行進してゆきます。

すると、氷原のど真ん中ではたと立ち止まり、ちょっと迷うような仕草をしてから曲がれ右をし、群れを離れて山の方へ行く、ペンギンが出てきます。山の向こうはまた山。ですから回れ右ペンギンは、自分の死に向かって、行進してゆくのと同じ。おい、お前、ちょっとおかしいよ。そっちいっちゃ駄目じゃない...!

南極では、このようなペンギンがキャンプ領域に入ってきたとき、人間は行動を一時停止して、ペンギンをやりすごすのがマナー。例え、それが、ペンギンの死を意味するとしてもです。

「なんであのペンギンは回れ右して、群れを離れていってしまったのか?」というナゾナゾを抱えて、映画を見終わった私は、翌日、会社で、ドナルドの机上にペンギンのぬいぐるみがおいてあるのに気づきました。

「ドナルド、『世界の果てでの出会い』を見た?」
「もちろんだよ。」
「ペンギンのこと、どう思う?」と聞くと、次のような答えが返ってきました。

「僕はペンギンを尊敬するよ。海にはペンギンの天敵がたくさんいる。サメやあざらしだ。それを知ってて海へ戻る。ビジネスもそれと同じだ。何が起こるかわからないけど、決断して飛び込まなくちゃならない。僕もいさぎよく飛び込めるよう、ペンギンの人形を机の上においているんだよ。」

なるほど。

とすると、あの回れ右をしたペンギンは、サメやあざらしに食べられてしまうのが嫌で、立ち止まり、皆が向かう海へ行くのをやめたのかもしれないじゃないですか。方向転換により、違う可能性を求めたのかもしれません。つまり、あのペンギンはアブノーマルでも、クレイジーでもなく、生きるための、インテリジェントな決断をしたことになります。私たち人間は、あの山の向こうには、またどてかい山が続いている事を知っていますが、回れ右ペンギンは知りません。そこが悲劇です。

全部書いてしまうと、映画がつまんなくなってしまうかもしれないのでここで止めておきますが、このペンギンの次に出てくる学者でこの映画を終わらせる、ヴェルナー・ヘルツォーク、映画に思考を語らせる、優れた映画作成者だと思います。