「ガラスのかけら(Glass Pieces)」はプログラム5の最後の作品。
「ウエストサイド・ストーリー」で有名な故ジェローム・ロビン(Jerome Robbins)が、ニューヨーク・シティ・バレエ(New York City Ballet)のために、フィリップ・グラス(Phillip Glass)に依頼した新曲に振付けしたもの。サンフランシスコ・バレエでも何度も上演している、モダンバレエの傑作です。
聞いただけで、すぐにフィリップ・グラスの曲とわかる、「ガラスのかけら」。聞く人に、イメージをわかせる曲。私のイメージは、水の粒子の「ブラウン運動」、スローモーション風に飛び散るガラスのかけら。
ジェームス・ロビンの振付けのイメージは都会の昼と夜だと思います。喧噪とする、朝の都会の駅前の交差点、もしくは駅の構内。背景は白くて大きな方眼紙。夜、ビルの片隅の裏道(上の写真参照)。コールドバレエの、メカニカルな背景ダンスもなかなか面白です。次に、忙しく、組織的に働く人たち(下の写真参照)。男性だけの踊りです。そして夕方の駅前の交差点という四部構成。
ニューヨークタイムズ紙(New York Times)がグランドセントラル駅(Grand Central Station)の写真を掲載したとき、写真の下方に「ガラスのかけら」というキャプションをいれたことがあるそうです。
曲と振付けがぴったりと合った、モダンバレエの古典。
Youtubeで見つけたビデオクリップをリンクしておきます。
こちらのリンクは、ニューヨーク・シティ・バレエによる「ガラスのかけら」の練習風景。ソフィアン・シルビ(Sofiane Sylve)が見えるのは、彼女が元ニューヨーク・シティ・バレエ所属だったため。
ところで、今シーズンから、日本人の女の子がサンフランシスコ・バレエに入団。イシハラ コトという人なんですけど、足がきれいに高く上がるし、曲げてあげても美しいです。これからどうなってゆくか楽しみ。
2012年3月31日土曜日
2012年3月18日日曜日
Death Valley 駆け巡り記 3: 砂丘の日の出とダンテの地獄
日の出を見ることにして砂丘へ。同じこと考えてる人たちが、メスクゥート砂丘(Mesquite Dunes)のあちこちに小さく見えます。車を置いて砂丘に入り、日が出るまで、ヨガをやることにしました。
最初の日の光がピカーと射したとき、サン・サルテーション(Sun salutation)。
日の出というのはちょっと格別、まだ白紙の、新しい日を迎えるという気がします。今まで日の出を見るなんて事、考えた事がなかったのが残念な気がするくらい。
いったんホテルに戻ってシャワーを浴びてから、モザイク・キャニオン(Mosaic Canyon)へ。巨大な変成岩には、堆積岩時代と造山隆起の思い出が幾層にもわたって刻まれていて、まるで太古の歴史を音符代わりに留めてる五線紙のよう。そんなメロディーを辿りながら、巨大な岩の隙間のハイキング道を進みます。
ダンテズ・ビュー(Dante's View)、ダンテという名前がつくのがひどく気になって、遠回りになるんですけど、寄る事にしました。メインの道路を離れてだんだんと高度が上昇、植物の種類が比較的豊富になり、乾燥地帯の植物の葉や茎の色が花畑のように鮮やか。思うままに空に向かって伸びる植物の、リンとした率直な美しさ、「自分」らしさ。そのありさまを忘れたくなくて、網膜に焼き付けようと熟視。
断崖絶壁上の道が急に狭くなり、傾斜もきつくなったので、しがみつくように「エイヤッ!」とハンドルをきると突然駐車場。アーッと声も上げんばかりに車から飛び出して見た、ダンテの地獄の壮大なビュー!!
最初に訪れたバッドウォーターのちょうど真上。ああ、延々と続く塩の原、それを横切って吹く風の向こうの山なみ。
もっとダンテの景色を見たい、急な傾斜の植物を見たいと、駐車場から尾根伝いに歩きます。
尾根から見た急な傾斜。この写真じゃ、岩や草の色彩の美しさは伝えられません! 写真家でも無理かも。でもリンクしておきます。
デスバレーにお別れを告げる時間が迫ってきましたが、はからずも、有終の美を飾るに相応しい、塩と山と岩と谷と風と空と草木と時間が交差する悠久のドラマを、風にピシピシとおでこや頬をたたかれながら眺望できたのは、謙虚に感謝感激です。
なお、フリッカーですごく美しいデスバレー写真シリーズを見つけたので、タイトルにエンクロージャーしておきました。タイトルをクリックすると見られます。
2012年4月9日: デス・バレーでやり残して残念に思うのは、バッドウォーターを、もっと遠くまでずっと歩いてみたかったこと。もっと歩いてみたかったなーという場所がいくつかあること。
最初の日の光がピカーと射したとき、サン・サルテーション(Sun salutation)。
日の出というのはちょっと格別、まだ白紙の、新しい日を迎えるという気がします。今まで日の出を見るなんて事、考えた事がなかったのが残念な気がするくらい。
いったんホテルに戻ってシャワーを浴びてから、モザイク・キャニオン(Mosaic Canyon)へ。巨大な変成岩には、堆積岩時代と造山隆起の思い出が幾層にもわたって刻まれていて、まるで太古の歴史を音符代わりに留めてる五線紙のよう。そんなメロディーを辿りながら、巨大な岩の隙間のハイキング道を進みます。
ダンテズ・ビュー(Dante's View)、ダンテという名前がつくのがひどく気になって、遠回りになるんですけど、寄る事にしました。メインの道路を離れてだんだんと高度が上昇、植物の種類が比較的豊富になり、乾燥地帯の植物の葉や茎の色が花畑のように鮮やか。思うままに空に向かって伸びる植物の、リンとした率直な美しさ、「自分」らしさ。そのありさまを忘れたくなくて、網膜に焼き付けようと熟視。
断崖絶壁上の道が急に狭くなり、傾斜もきつくなったので、しがみつくように「エイヤッ!」とハンドルをきると突然駐車場。アーッと声も上げんばかりに車から飛び出して見た、ダンテの地獄の壮大なビュー!!
最初に訪れたバッドウォーターのちょうど真上。ああ、延々と続く塩の原、それを横切って吹く風の向こうの山なみ。
もっとダンテの景色を見たい、急な傾斜の植物を見たいと、駐車場から尾根伝いに歩きます。
尾根から見た急な傾斜。この写真じゃ、岩や草の色彩の美しさは伝えられません! 写真家でも無理かも。でもリンクしておきます。
デスバレーにお別れを告げる時間が迫ってきましたが、はからずも、有終の美を飾るに相応しい、塩と山と岩と谷と風と空と草木と時間が交差する悠久のドラマを、風にピシピシとおでこや頬をたたかれながら眺望できたのは、謙虚に感謝感激です。
なお、フリッカーですごく美しいデスバレー写真シリーズを見つけたので、タイトルにエンクロージャーしておきました。タイトルをクリックすると見られます。
2012年4月9日: デス・バレーでやり残して残念に思うのは、バッドウォーターを、もっと遠くまでずっと歩いてみたかったこと。もっと歩いてみたかったなーという場所がいくつかあること。
2012年3月11日日曜日
2012年、サンフランシスコ・バレエの「ロミオとジュリエット」
2012年サンフランシスコ・バレエの、マリア・コチェトコワ(Maria Kochetkova)とヨアン・ボアダ(Joan Boada)が演じるロミオとジュリエットは素晴らしかったです。
第一幕:ロミオがジュリエットの家の庭に忍び込んで始まるバルコニーの場面。愛を告白し合う2人は青春のまっただ中。見つめ合ったり、だきあったり、ふざけたりして、溢れるばかりの情熱と喜びで舞台上を駆け巡ります。お互いの感情だけが世界ーーそんな2人を見てて、思わず、あ〜、私にもこんな時代があったなーと、一瞬、フワァーと、タイムマシンに乗って、自分の過去に飛んでしまいました。
写真:リンクしたサイトから。これは2011年公演の時の写真です。
第二幕:ティボルト一派と、ロメオ一派の立ち回り:さすがハリウッドの第一人者がコーチした立ち回り、演出もいいし、皆さん、剣さばきが上達。ダンサーなんで、感がいいんですね。ティボルトがマキューシオを刺殺、ロメオが逆上してティボルトに復讐しますが、事態の重大さに愕然としたロメオ、許しを乞おうとします。
第三幕:一晩を共にしたロミオとジュリエットの別れの場面。パーフェクトな踊りとかなんとかかんとか以上のなにかで観客の心と目をしっかり2人につなぎとめ、観客も2人の動きを追います。美しいプロコフィエフのテーマにのって、ロメオとジュリエットは、澄んだ瀬せらぎの水のように、舞台上を走り、流れ、縺れ、絡み合い、輝き、滑ります。
写真:ロサンジェルスタイムズから。2011年の写真とレビュー。記事の真ん中あたりに、青いハイパーリンクがありますが、それをクリックすると写真が見られます。
ロミオとジュリエットが秘密で結婚してしまったのを知らないキャプレット大公夫婦、ジュリエットをパリスと結婚させようとしますが、ジュリエットは拒否。父親に自分の気持ちをわかってもらおうとするジュリエット、怒る父と母。ジュリエットに同情して、私は涙を流してしまいました。
ジュリエットが一時的に死んでいるだけなのを知らないロメオが、悲しみのうちにジュリエットの亡がらを抱き上げて踊ります。
ロメオが毒薬を飲もうとするとき、私は「ロメオ、早合点しないで!」と言いたくなってしまいますが、しょうがありません。
ロメオが自殺したあと、ジュリエットが目を覚まします。ロメオの死骸を見て愕然とし号泣。私も、さらに涙を流してしまいました。
ただの男の子から恋する青年へと変身、その喜びあふれる気持ちと情熱を、体全体で、ためらいもなく大胆に表現できるヨアン、この点では男性ダンサーの中では希有で、ロミオ役がぴったり。片手でマリアを高々とかかげて踊れるのは、今のところ、彼だけ。ちょっと背が低いのがダンサーとして難点と言えば難点ですが、ロミオ役をやってるときは、まるで気になりません。
目差しや体の動きでジュリエットの気持ちを伝えるマリアは、サンフランシスコ・バレエを代表するに相応しいプリマドンナに成長、ヤン・ヤン・タンがトップの時代に終止符を打ってしまいました。感情表現と技術がマッチするマリアーーこれからどのように成長するかは想像もつきませんが、成長し続けるのは確か。
マリアの場合、大胆に表現するんですが、彼女のパーソナリティなんでしょうか、それとも先のあるダンサーが持ってる共通のものなんでしょうか、それがたずなをかけ、言葉にならない部分、つまり「...」の部分を、体の筋肉一筋、一筋の動きにして表現してしまうんですね。
ヨアンも「...」ができたんですが、今シーズンまで長い間、ちょい役ばかりやらされてたせいか、あまりそれが見られない感じ。ヘルゲイ(ディレクター)にヨアンの踊る機会をもっと作ってもらいたいし、ヨアンのもう一つの特徴である、腕と手の動きのまれな美しさをぐーんと伸ばして、もっと見せて欲しいものです。
カーテンコールの時、ヨアンは最近、必ずマリアの手にキス。プログラム3の「リミニのフランセスカ」の時もそうでした(これも本当に素晴らしかったです)。「マリア、君は最高だ、お陰で素晴らしいパフォーマンスができたよ、ありがとう!」という気持ちを伝えてるんだ思います。ペアが技術的にマッチし、100パーセントの信頼があってこそ。ヨアンだから、マリアも十分に大胆に、繊細に、好きなだけ気持ちを込めて、今、踊れるんだなと思います。
ジェームス・ガルシア・カスティラ(James Garcia Castilla):ロミオの友達役。いつも足が後ろに高く良く伸びる美しいジャンプ。「にんじん」という孤児の話がありますが、そのにんじん的雰囲気と、チンピラ風の顔のおかげで随分、損してる感じ。SFゲートに写真が出てるのでリンクしておきます。
クィン・ワートン(Quinn Wharton)とルーク・ウィリス(Luke Willis):2人ともコールドバレエの一員なんですけど、体格がよく、パリスや、ティボルトの友達役をやってます。ジェレミー・ラッカー(Jeremy Rucker)もティボルト派の一員。
サラ・バン・パタン(Sarah van Patten): ロメオを見つめるさい、クビがガクッとさがっていて上目使いになり、ちょっと変。なんでだかわかりません。でも踊りや表現はぐーんと上手になってます。演劇のクラスでもとったのかも。
サラはピエールーフランコイズ・ビラノバ(Pierre-Francois Vilanoba)と組んで踊ったんですが、2人の踊りは、マリアとヨアンが持ってるほどのお客をつかむ力はありません。踊りはあっち、観客はこっちという区分が乗り越えられないんでしょうね。ビラノバは踊ってる最中の感情表現はいいんですが、踊ってないときにただの人に戻ってしまうのに気づいて欲しいんですけど。
表情とダンスがマッチできるというのは、そうはたくさんあることではないのかも。例えばバネッサ・ゾッホリンの場合、きれいな人なんですが、顔に張りつけたような笑顔。自然に表情が出てないんで、踊りそのものも、自由の域に達してない感じがします。
SFgateの写真とレビューのリンク。2012年です。
こちらはビデオクリップ。
ビデオクリップじゃないんですが、パーティの開始場面と第二幕の一部がよく見られます。話をしてる人はアニタ・パチアッチで、ジュリエッとの乳母役でもあり、バレエマスターでもあります。
第一幕:ロミオがジュリエットの家の庭に忍び込んで始まるバルコニーの場面。愛を告白し合う2人は青春のまっただ中。見つめ合ったり、だきあったり、ふざけたりして、溢れるばかりの情熱と喜びで舞台上を駆け巡ります。お互いの感情だけが世界ーーそんな2人を見てて、思わず、あ〜、私にもこんな時代があったなーと、一瞬、フワァーと、タイムマシンに乗って、自分の過去に飛んでしまいました。
写真:リンクしたサイトから。これは2011年公演の時の写真です。
第二幕:ティボルト一派と、ロメオ一派の立ち回り:さすがハリウッドの第一人者がコーチした立ち回り、演出もいいし、皆さん、剣さばきが上達。ダンサーなんで、感がいいんですね。ティボルトがマキューシオを刺殺、ロメオが逆上してティボルトに復讐しますが、事態の重大さに愕然としたロメオ、許しを乞おうとします。
第三幕:一晩を共にしたロミオとジュリエットの別れの場面。パーフェクトな踊りとかなんとかかんとか以上のなにかで観客の心と目をしっかり2人につなぎとめ、観客も2人の動きを追います。美しいプロコフィエフのテーマにのって、ロメオとジュリエットは、澄んだ瀬せらぎの水のように、舞台上を走り、流れ、縺れ、絡み合い、輝き、滑ります。
写真:ロサンジェルスタイムズから。2011年の写真とレビュー。記事の真ん中あたりに、青いハイパーリンクがありますが、それをクリックすると写真が見られます。
ロミオとジュリエットが秘密で結婚してしまったのを知らないキャプレット大公夫婦、ジュリエットをパリスと結婚させようとしますが、ジュリエットは拒否。父親に自分の気持ちをわかってもらおうとするジュリエット、怒る父と母。ジュリエットに同情して、私は涙を流してしまいました。
ジュリエットが一時的に死んでいるだけなのを知らないロメオが、悲しみのうちにジュリエットの亡がらを抱き上げて踊ります。
ロメオが毒薬を飲もうとするとき、私は「ロメオ、早合点しないで!」と言いたくなってしまいますが、しょうがありません。
ロメオが自殺したあと、ジュリエットが目を覚まします。ロメオの死骸を見て愕然とし号泣。私も、さらに涙を流してしまいました。
ただの男の子から恋する青年へと変身、その喜びあふれる気持ちと情熱を、体全体で、ためらいもなく大胆に表現できるヨアン、この点では男性ダンサーの中では希有で、ロミオ役がぴったり。片手でマリアを高々とかかげて踊れるのは、今のところ、彼だけ。ちょっと背が低いのがダンサーとして難点と言えば難点ですが、ロミオ役をやってるときは、まるで気になりません。
目差しや体の動きでジュリエットの気持ちを伝えるマリアは、サンフランシスコ・バレエを代表するに相応しいプリマドンナに成長、ヤン・ヤン・タンがトップの時代に終止符を打ってしまいました。感情表現と技術がマッチするマリアーーこれからどのように成長するかは想像もつきませんが、成長し続けるのは確か。
マリアの場合、大胆に表現するんですが、彼女のパーソナリティなんでしょうか、それとも先のあるダンサーが持ってる共通のものなんでしょうか、それがたずなをかけ、言葉にならない部分、つまり「...」の部分を、体の筋肉一筋、一筋の動きにして表現してしまうんですね。
ヨアンも「...」ができたんですが、今シーズンまで長い間、ちょい役ばかりやらされてたせいか、あまりそれが見られない感じ。ヘルゲイ(ディレクター)にヨアンの踊る機会をもっと作ってもらいたいし、ヨアンのもう一つの特徴である、腕と手の動きのまれな美しさをぐーんと伸ばして、もっと見せて欲しいものです。
カーテンコールの時、ヨアンは最近、必ずマリアの手にキス。プログラム3の「リミニのフランセスカ」の時もそうでした(これも本当に素晴らしかったです)。「マリア、君は最高だ、お陰で素晴らしいパフォーマンスができたよ、ありがとう!」という気持ちを伝えてるんだ思います。ペアが技術的にマッチし、100パーセントの信頼があってこそ。ヨアンだから、マリアも十分に大胆に、繊細に、好きなだけ気持ちを込めて、今、踊れるんだなと思います。
ジェームス・ガルシア・カスティラ(James Garcia Castilla):ロミオの友達役。いつも足が後ろに高く良く伸びる美しいジャンプ。「にんじん」という孤児の話がありますが、そのにんじん的雰囲気と、チンピラ風の顔のおかげで随分、損してる感じ。SFゲートに写真が出てるのでリンクしておきます。
クィン・ワートン(Quinn Wharton)とルーク・ウィリス(Luke Willis):2人ともコールドバレエの一員なんですけど、体格がよく、パリスや、ティボルトの友達役をやってます。ジェレミー・ラッカー(Jeremy Rucker)もティボルト派の一員。
サラ・バン・パタン(Sarah van Patten): ロメオを見つめるさい、クビがガクッとさがっていて上目使いになり、ちょっと変。なんでだかわかりません。でも踊りや表現はぐーんと上手になってます。演劇のクラスでもとったのかも。
サラはピエールーフランコイズ・ビラノバ(Pierre-Francois Vilanoba)と組んで踊ったんですが、2人の踊りは、マリアとヨアンが持ってるほどのお客をつかむ力はありません。踊りはあっち、観客はこっちという区分が乗り越えられないんでしょうね。ビラノバは踊ってる最中の感情表現はいいんですが、踊ってないときにただの人に戻ってしまうのに気づいて欲しいんですけど。
表情とダンスがマッチできるというのは、そうはたくさんあることではないのかも。例えばバネッサ・ゾッホリンの場合、きれいな人なんですが、顔に張りつけたような笑顔。自然に表情が出てないんで、踊りそのものも、自由の域に達してない感じがします。
SFgateの写真とレビューのリンク。2012年です。
こちらはビデオクリップ。
ビデオクリップじゃないんですが、パーティの開始場面と第二幕の一部がよく見られます。話をしてる人はアニタ・パチアッチで、ジュリエッとの乳母役でもあり、バレエマスターでもあります。
2012年3月8日木曜日
Death Valley 駆け巡り記 2: バッドウォーターからザブラスキ・ポイント
翌朝9時にリッジクレスト(Ridgecrest)のモーテル出発、米海軍の基地沿いのハイウェイ178をさらに東へ。
名前のとおり、水のかわりに、塩の結晶がはってる、巨大な、白いドライ・ソルト・レーク(Dry Salt Lake)が見えてきました。ドライ・レーク「塩」畔の、工場の町、トローナ(Trona)で休憩。何もすることがないので町の歴史館へぷらり、塩からいろいろなミネラルを蒸留抽出するために工場があり、町ができたのを理解。50年代には大繁栄してたようですが、今はその面影を歴史館の古い写真にとどめるだけ。
写真:塩からミネラルを抽出する工場。この会社の現オーナーは、なんと、インドの会社。海を離れて何千里、こんな人里離れた場所にも、時代の波が押し寄せていて、東南アジアの進出があるなんて! 会社側も宣伝する気はないらしく、写真をとってたら、パリッとした制服を着た守衛さんがでてきて、止められました。そのこと自体は驚きませんでしたが、強い日差しでペンキが剥げ落ちた町に、突然、身なりの良い守衛さんの出現はちぐはぐで、意外で、びっくり。
この町を過ぎると、いよいよ「何も無ーい」から、「何もなーい、自然があるか」と、人間の手が入ってほこりっぽくなった自然がのろのろと遠のき、自然のための自然が少しづつ、前に出てきます。
突如出現した急な山を超え、平地を北へ、北へと走ります。
草みたいな、低木が続きます。
植物の種類が少なくなり、間隔も、規則正しいながら、まばらになっていくので、ますます乾燥地帯に入って行くのがわかります。
何もない、広大な場所、こんなとこに舗装道路があるのが不思議な道を、ひたすら、ただ道なみに走ります。何を目標に走ってるかわからなくなるほど走るとやっと道標、デス・バレー国立公園(Death Valley)経由ラスベガスへと伸びるハイウェイ190のT字路にぶつかりました。
デス・バレー国立公園内西端の村、ストーブパイプ・ウェルズ(Stovepipe Wells)についたときは午後、すぐにホテルを予約して、そのまますぐ、デス・バレー探索へ出発。
ファーネス・クリーク(Furnace Creek)へ向かうにつれ高度が低くなり、「海抜マイナス100フィート」の標識をみながら、汗をかきかき、たまにサイクリストにすれちがいながら、何も無い場所を走ります。
ファーネス・クリークは、旅行者用ビジターセンターの他に、食料品店やお土産物屋さん、レストラン、自転車屋さんなんかがある、けっこう、にぎやかな場所。食料品店はストーブパイプにもあります。
最初に訪問した場所はバッドウォーター(Badwater)。ここは海抜マイナス86メートルという、アメリカで一番低い場所。昔は湖だったそうですが水は蒸発、今はちょっと水が残ってるだけ、あとは真っ白な塩原がえんえんと。喉の乾ききった旅人が「水だー!」と喜んで走りより、飲もうとするんですが塩辛くて飲めない、それがバッドウォーターという名前の由来。こんな水にも巻貝類が住んでて、保護されてます。
ナチュラル・ブリッジ(Natural Bridge)。本道から右折して砂利道をごろごろ走ると、ハイキング道入り口の駐車場。車から降りて100メートルぐらい歩くと到着。
アーティスト・パレット(Artist's Pallet)へ行くため、アーティスト・ドライブ(Artist Drive)という一方通行の舗装道路に入ります。上がったり下がったり曲がりくねったり、また岩の様相や地質的特徴、植相にも変化に富む、楽しいドライブ。「絵描きさんのパレット(アーティスト・パレット)」と呼ばれる由縁は、緑や青やピンク色の鉱物が岩石に含まれてるため。そんな鉱物の色が一番美しく映えて見えるのが夕焼け時なので、本を読みながら、気長に待ってる人たちもいましたが、私達はそんな時間はないので、日没30分前の午後5時に出発。
ザブリスキー・ポイント(Zabriskie Point)に着いたときは、日没の直前。スター・ウォーズに出てくる星よりか別世界... 数千万年前に、地下のマグマにオーブン焼きにされた地球のプレートが、波のように押し寄せる圧力に屈して隆起し、アメのように曲がりくねりながらそのまま冷え、シマウマ状の化石的風景になったという感じ。
ストーブパイプ・ウェルズに戻ったときはもう真っ暗。レストランで、肉はまずいが付け合わせのインゲンはおいしかった食事の後、ホテルでバタン、キュー。
4/9/2012追記: 車で行くなら、ホテルはファーネス・クリークより、ストーブパイプの方が安め。古さは同じ。レストランは記念が目的なら食べてもいいけどたいしたことなし。前日までに電話すると、だいたいホテルの部屋は空いてるので、クレジットーカード予約がベスト。食べ物は公園の外のマーケットでバケットとチーズと果物、サラダなんかを買ってて持ってた方が新鮮で美味しいです。
名前のとおり、水のかわりに、塩の結晶がはってる、巨大な、白いドライ・ソルト・レーク(Dry Salt Lake)が見えてきました。ドライ・レーク「塩」畔の、工場の町、トローナ(Trona)で休憩。何もすることがないので町の歴史館へぷらり、塩からいろいろなミネラルを蒸留抽出するために工場があり、町ができたのを理解。50年代には大繁栄してたようですが、今はその面影を歴史館の古い写真にとどめるだけ。
写真:塩からミネラルを抽出する工場。この会社の現オーナーは、なんと、インドの会社。海を離れて何千里、こんな人里離れた場所にも、時代の波が押し寄せていて、東南アジアの進出があるなんて! 会社側も宣伝する気はないらしく、写真をとってたら、パリッとした制服を着た守衛さんがでてきて、止められました。そのこと自体は驚きませんでしたが、強い日差しでペンキが剥げ落ちた町に、突然、身なりの良い守衛さんの出現はちぐはぐで、意外で、びっくり。
この町を過ぎると、いよいよ「何も無ーい」から、「何もなーい、自然があるか」と、人間の手が入ってほこりっぽくなった自然がのろのろと遠のき、自然のための自然が少しづつ、前に出てきます。
突如出現した急な山を超え、平地を北へ、北へと走ります。
草みたいな、低木が続きます。
植物の種類が少なくなり、間隔も、規則正しいながら、まばらになっていくので、ますます乾燥地帯に入って行くのがわかります。
何もない、広大な場所、こんなとこに舗装道路があるのが不思議な道を、ひたすら、ただ道なみに走ります。何を目標に走ってるかわからなくなるほど走るとやっと道標、デス・バレー国立公園(Death Valley)経由ラスベガスへと伸びるハイウェイ190のT字路にぶつかりました。
デス・バレー国立公園内西端の村、ストーブパイプ・ウェルズ(Stovepipe Wells)についたときは午後、すぐにホテルを予約して、そのまますぐ、デス・バレー探索へ出発。
ファーネス・クリーク(Furnace Creek)へ向かうにつれ高度が低くなり、「海抜マイナス100フィート」の標識をみながら、汗をかきかき、たまにサイクリストにすれちがいながら、何も無い場所を走ります。
ファーネス・クリークは、旅行者用ビジターセンターの他に、食料品店やお土産物屋さん、レストラン、自転車屋さんなんかがある、けっこう、にぎやかな場所。食料品店はストーブパイプにもあります。
最初に訪問した場所はバッドウォーター(Badwater)。ここは海抜マイナス86メートルという、アメリカで一番低い場所。昔は湖だったそうですが水は蒸発、今はちょっと水が残ってるだけ、あとは真っ白な塩原がえんえんと。喉の乾ききった旅人が「水だー!」と喜んで走りより、飲もうとするんですが塩辛くて飲めない、それがバッドウォーターという名前の由来。こんな水にも巻貝類が住んでて、保護されてます。
ナチュラル・ブリッジ(Natural Bridge)。本道から右折して砂利道をごろごろ走ると、ハイキング道入り口の駐車場。車から降りて100メートルぐらい歩くと到着。
アーティスト・パレット(Artist's Pallet)へ行くため、アーティスト・ドライブ(Artist Drive)という一方通行の舗装道路に入ります。上がったり下がったり曲がりくねったり、また岩の様相や地質的特徴、植相にも変化に富む、楽しいドライブ。「絵描きさんのパレット(アーティスト・パレット)」と呼ばれる由縁は、緑や青やピンク色の鉱物が岩石に含まれてるため。そんな鉱物の色が一番美しく映えて見えるのが夕焼け時なので、本を読みながら、気長に待ってる人たちもいましたが、私達はそんな時間はないので、日没30分前の午後5時に出発。
ザブリスキー・ポイント(Zabriskie Point)に着いたときは、日没の直前。スター・ウォーズに出てくる星よりか別世界... 数千万年前に、地下のマグマにオーブン焼きにされた地球のプレートが、波のように押し寄せる圧力に屈して隆起し、アメのように曲がりくねりながらそのまま冷え、シマウマ状の化石的風景になったという感じ。
ストーブパイプ・ウェルズに戻ったときはもう真っ暗。レストランで、肉はまずいが付け合わせのインゲンはおいしかった食事の後、ホテルでバタン、キュー。
4/9/2012追記: 車で行くなら、ホテルはファーネス・クリークより、ストーブパイプの方が安め。古さは同じ。レストランは記念が目的なら食べてもいいけどたいしたことなし。前日までに電話すると、だいたいホテルの部屋は空いてるので、クレジットーカード予約がベスト。食べ物は公園の外のマーケットでバケットとチーズと果物、サラダなんかを買ってて持ってた方が新鮮で美味しいです。
2012年3月2日金曜日
福島原発事故、内部で何が起こっていたか:米ドキュメンタリー番組
2012年2月28日、PBS 公共テレビ放送で「原子炉メルトダウンの内側で」(Inside Japan's Nuclear Meltdown)というドキュメンタリーがフロントライン(FrontLine)で放送されました。ドキュメンタリーのイントロでは、福島原発事故を、「今世紀最大の原発事故」と位置づけています。
3月11日、福島原発でコントロール業務にあたっていた人たちや、異常事態が生じたあと事故現場内に配置され、作業にあたった人たちや、当時の首相、管さんをインタビューし、事故後の一週間を中心に、現場内部で何が起こっていたのかを、ドキュメンタリーにしたもの。プロデューサー兼ディレクターはダン・エッジ(Dan Edge)という人です。
東電は、当時、事故関係の話を関係者以外にするのを禁じましたが、3月11日大災害から時間を経った今、事故発生時から、原子炉に水を投入してピットを冷却するまで、実際、現場内部で何が起こったのかを話始める人たちが出てきたため、ドキュメント制作が可能になったようです。
東電も管元総理もメルトダウンが起こってるのを1ヶ月くらい否定してましたが、このドキュメンタリーによると、現場のコントロール室で作業をしていたエンジニアは、二日目までには、メルトダウンが起こっているのを、認識していたようです。
放射能を含んだ空気を外に出さなければ、内部爆発がおこるような状態が来たため、管元首相は、最悪の事態を避けるため、東電の要請を受けてベント解放に実行命令をだしました。
管元総理が、ヘリコプターで、福島原発へ向かったニュースがありましたが、このベント解放の命令がいつまでたっても実施されないのに憤慨した管元首相が、東電が何か重大なことを隠してるんではないかと疑い、現地に向かったよう。
現場で管元首相は、電気の無い現状でベントを開けるには、死を覚悟の決死隊が、高放射能環境に行って、手動で開口しなければならないのを知り、決死隊に犠牲者が出る覚悟で、ベント解放を現場で指示。
リアクターに直接、水を注入することになった自衛隊メンバーが現場に入ったとき、リアクターを覆っている外部ビルが爆発倒壊、大きなコンクリートのかけらが車の屋根を直撃、けが人も出たようですが、高防放射の犯される前に脱出。
五日目に、東電側が、放射能が危険レベルを超えたので職員を全員避難させようとしたが、元首相が東電本社を訪問、日本だけの問題ではなくて世界の問題であるとして、現場に残って対応するよう指示。
福島原発事故がかなり危険なレベルに達していたのが、このドキュメンタリーからも、かいま見られます。
アメリカから派遣されたエンジニアは、情報不足に業を煮やし、ドローン(スパイ用超小型飛行機)を飛ばして現場の状況を観察、今から思えば、在日アメリカ人にもっと広範囲にわたる避難命令を出したのは、このデータに基づいてたのが容易に想像されます。
日本でも、上記と同様な内容の事実が発表されるか、されたと思いますが、日本国外での捉え方に興味のあるかたのためにドキュメンタリーをリンクしておきます。なお、これは英語放送であること、またリンクは永久リンクではありません。
私も放送を一回しか聞いていないので(時間のあるときに確認するつもりですが)、内容は、個々の皆さんで確認してくださるよう、おねがいします。
注:3月3日に内容のアップデートをしました。
3月11日、福島原発でコントロール業務にあたっていた人たちや、異常事態が生じたあと事故現場内に配置され、作業にあたった人たちや、当時の首相、管さんをインタビューし、事故後の一週間を中心に、現場内部で何が起こっていたのかを、ドキュメンタリーにしたもの。プロデューサー兼ディレクターはダン・エッジ(Dan Edge)という人です。
東電は、当時、事故関係の話を関係者以外にするのを禁じましたが、3月11日大災害から時間を経った今、事故発生時から、原子炉に水を投入してピットを冷却するまで、実際、現場内部で何が起こったのかを話始める人たちが出てきたため、ドキュメント制作が可能になったようです。
東電も管元総理もメルトダウンが起こってるのを1ヶ月くらい否定してましたが、このドキュメンタリーによると、現場のコントロール室で作業をしていたエンジニアは、二日目までには、メルトダウンが起こっているのを、認識していたようです。
放射能を含んだ空気を外に出さなければ、内部爆発がおこるような状態が来たため、管元首相は、最悪の事態を避けるため、東電の要請を受けてベント解放に実行命令をだしました。
管元総理が、ヘリコプターで、福島原発へ向かったニュースがありましたが、このベント解放の命令がいつまでたっても実施されないのに憤慨した管元首相が、東電が何か重大なことを隠してるんではないかと疑い、現地に向かったよう。
現場で管元首相は、電気の無い現状でベントを開けるには、死を覚悟の決死隊が、高放射能環境に行って、手動で開口しなければならないのを知り、決死隊に犠牲者が出る覚悟で、ベント解放を現場で指示。
リアクターに直接、水を注入することになった自衛隊メンバーが現場に入ったとき、リアクターを覆っている外部ビルが爆発倒壊、大きなコンクリートのかけらが車の屋根を直撃、けが人も出たようですが、高防放射の犯される前に脱出。
五日目に、東電側が、放射能が危険レベルを超えたので職員を全員避難させようとしたが、元首相が東電本社を訪問、日本だけの問題ではなくて世界の問題であるとして、現場に残って対応するよう指示。
福島原発事故がかなり危険なレベルに達していたのが、このドキュメンタリーからも、かいま見られます。
アメリカから派遣されたエンジニアは、情報不足に業を煮やし、ドローン(スパイ用超小型飛行機)を飛ばして現場の状況を観察、今から思えば、在日アメリカ人にもっと広範囲にわたる避難命令を出したのは、このデータに基づいてたのが容易に想像されます。
日本でも、上記と同様な内容の事実が発表されるか、されたと思いますが、日本国外での捉え方に興味のあるかたのためにドキュメンタリーをリンクしておきます。なお、これは英語放送であること、またリンクは永久リンクではありません。
私も放送を一回しか聞いていないので(時間のあるときに確認するつもりですが)、内容は、個々の皆さんで確認してくださるよう、おねがいします。
注:3月3日に内容のアップデートをしました。
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