2014年12月9日火曜日

観世能楽堂の「半蔀(はじとみ) 立花供養(りっかくよう)」

渋谷の観世能楽堂で「半蔀(はじとみ)」を見られたのは本当にラッキーでした。津田和忠さんという能楽師さんが、観世能楽堂の移転より、この場所での能演は終わりつつあるという意識もあって演じた番組の一つだと思います。「半蔀(はじとみ)」とは、棒で支えて開ける、突き上げ窓のことを言うそうです。(下の写真)



お話は京の僧が90日修業後に、修業で使った花の供養をしていると、一人の女が現れ、五条に住んでいるものと名乗って白い夕顔の花を供えて消え失せます。五条は昔、源氏と一夜の契りを結んだ夕顔が住んでいたところ。不思議に思った僧が行ってみると、半蔀を下げた家から夕顔の霊が現れ、源氏との恋の思い出を語って踊り、再び半蔀の中へ消えて行きます。僧は目が覚め、果たしてこれは夢だったのか、それとも現実だったのかと思うところで終わります。

うす桃色(うす鮭色?)の袴に、3重に白の重ね着をした上に白いトップを重ねた夕顔の姿の大きさに気づいたごろから舞台に引き込まれてしまいました。それまで観客として、お面と気持ち的に関係を持てなくてよそよそしい感じがしてたんですが、ある瞬間から舞台上の夕顔が急に息づき、動き始めたたのです。私の座ってる方向に歩いてきたとき、お面の目と私の目が真っ向からばっちり合い、こんなことは想像もしてなかったので、すごい衝撃でした。

私が舞台に吸い込まれたのには、太鼓奏者、佃良勝さんの掛け声に負うところが大いにあったと思います。佃さんの掛け声の表現力は素晴らしいの一言、次第に消えいるように止んだり、上がり調子や下り調子、またはフラットでスィッと消えたり、力が入って終わったりと自由自在で、しゃべられる言葉がよくわからなくても、舞台の感情、人物の感情が耳から心に響いてきます。その変幻自在の掛け声のおかげで、雲に覆われた月の明かりに照らされた嵐山を背景にしんしんと低く入ってくる霧や、蕾みのほころんだの梅の木の枝々を通しての夕顔の姿を、私は見たのです。すごく感動しました。



写真上はここからのスナップショット。ここでは夕顔は赤い袴をはいてますが、観世能楽堂での能演ではうす桃色でした。下の写真は開演前の観世能楽堂です。



英語版はこちら

2014年11月10日月曜日

ネトロブコの「イル・トロヴァトーレ」

ヴェルディの「イル・トロヴァトーレ(Il Trovatore)」を見て久しぶりに感激。

2014年ザルツブルク・フェスティバルで8月15日にライブでウェブ放送されたもののビデオ版のウェブキャーストで、アンナ・ネトロブコ(Anna Netrebko)がレオノーラ、プラシド・ドミンゴ(Placido Domingo)がルーナ伯爵、フランセスコ・メリ(Francesco Meli)という多分イタリア人がマンリーコ。

サンフランシスコ・オペラで「愛の妙薬」のアディーナ役を演じてデビューしたネトロブコを見たのが最初。まだ若くてほっそりとして色白で、今ほど自信たっぷりではなく、ちょっと神経質そうな感じがあった彼女が少女風にワゴン(?)から降りてきて歌うシーンが私の中に今でも残ってます。「この人、ちょっといいじゃん」と思ったけど、ロシアを代表する、世界の押しも押されぬトップ・ソプラノに成長するとは、そのときは知りようもありませんでした... ボヘミアンでマゼッタをやった彼女のキャラクターは薄っぺらな感じがしてあまり好きになれなく、残念でした。「椿姫」でバイレッタをやったとき彼女の声がひどく変わって深くダークになってたときのおどろき、そしてそれが出産後だったことを知ってさらに驚いた事... 今、彼女の「恋はバラ色の翼にのって(D'amor sull'ali rosee)」を聞いてますがこの公演では最高のパフォーマンス!椿姫の時のダークさはなくなってました。こんな声と歌い方、演じ方を創ったアンナ、嬉しいです。

中央がネトロブコ、向かって左がドミンゴ、右がフランシスコ・メリ。

今回の素晴らしい発見はフランシスコ・メリ。まわりのベテランにひけをとらない。まだ若い、素晴らしいテナー。「ああ、美しい人(Ah si, ben mio)

ジプシー占い師のアズチェーナを演じたのはカナダ人のマリー・ニコール・レミュー(? Marie-Nicole Lemieux)。息のつぎ方とぶれるとこがちょっと気になるが声は悪くないので他の役をやったらいいと思うけど、ドロラ・ゼイジャック(Dolora Zajick)のアズチェーナを知ってる私にはちょっと不満。これからの人なんでしょう。

ネトロブコとダイアナ・ヘイラーのイネス

たとえウェブキャストでも、世界のオペラをこうして聞けるなんて感動!ああ、日本のオペラではちょっと寂しい。

2014年10月12日日曜日

衝撃! 小学校のクラス会

小学校のクラス会の案内状が来たときはびっくり、「まじで?」だって浦島太郎的に遠い過去で、そんなのがあるなんて予測もしてませんでした。(長いアメリカ生活での言葉との格闘で、過去を振り返る時間はゼロだったからかも。)

担任の先生も参加とあるので、S先生にお会いするのはこれが最後になるかもしれないと、他の約束があったんですがキャンセルし、参加のお返事を出しました。最後のクラス会は10年前との事、まだ私がアメリカにどっぷりいた頃だなー。

当日4〜5人くらいしか来てないだろうと思ってたんですが、行ってびっくり、13人も来てるじゃないですか。

私に会釈してるんだから私を知ってる人に違いない...

近況報告をし始めると...外見ではわからなかった人の話し方や話すときの癖で、無から記憶がよみがえってくるじゃないですか。そして埋もれた記憶の荒野に最初のシャベルの一振りが振り込まれると、か細くも芋づる式に思い出されてくるではないの。

色白で立ち居振る舞いも上品なあの人の、話す時の頭の振り方、あごの突き出し方、「あ、あの人は...!」小学校以来ぜんぜん変わってない! 無からの記憶の蘇りで2時間はあっという間。

数十年も別離していた老夫婦が再会したとき、顔ではわからなかったが、ふと出た昔からの癖で誰だかがわかり、再会の涙にくれるという森鴎外の「じいさん、ばあさん」って、多分、本人の体験に基づいてるんですね。

さらに驚いたのが二次会のとき。1メートルも離れてない距離で顔を合わせて話していたTさんの顔が小学生の頃の顔に徐々にしっかりと重なった。「U君が弁護士になってるんだけど何かの事で青山のオフィスに招待されたのよ。でもいつも腕をつねられて嫌だった。」すると今度は小学5・6年生の気持ちが共に蘇り体験できる驚き!

私  : U君って早熟だったのかもね。」

Tさん: そうね。XXさんのパンツに穴が開いてたの覚えてる?...

この言葉を聞いた途端、「毛糸のパンツ事件」が頭の中いっぱいにボワーッと浮かび上がった。二つとも別件ですけど、掃除中に起こった出来事という点で共通。

写真はカリフォルニア州ハーフムーン・ベイでハロウィーンのパンプキンを選ぶ人達。

私達の頃は小学校では「掃除当番」があって、放課後にクラスの部屋の掃除をさせられてました。グループで掃除するんですけど、そのうち必ずさぼる男の子がでてくる。それが必ず男の子。私だって特に好きでもない掃除をしてるのに、かといってさぼるのは卑怯なので、「XX君もちゃんとやってよ」と押し問答になる、これが当時の私という子供の最大の不快事。

当時、掃除当番は床のぞうきん掛けもやってたんですけど、ある日、「おまえ毛糸のパンツはいてんの。」という男の子の声で顔を上げると、ぞうきん掛けをしてるTちゃんのスカートの下からまるまる見えてる毛糸のパンツが目にとびこんできました。それは草色と黒とクリーム色の残り毛糸で編んだパンツ。からかわれたことに怒るTちゃん、突然子供達が男の子と女の子というジェンダーグループに別れ、「xx君もちゃんと掃除してよ」の押し問答が始まり、手に手に帚やモップやバケツを持ってるので「一揆」の様相。最後に憎っき男の子達が校庭に逃げ出して遊びだしたのです。この日、力で押し切られる男女不平等にはっきりと怒った小学6(5?)年生でした。

えっ、あの怒りが今の私の原点? あんな小さいときに私の雛形があったの?... 私の原点ってそんなに単純なこと? クラス会の帰りの電車で私は異常に興奮、今の私と連続するとは思ってもいなかった小学校時代の私に、私の雛形があったというお・ど・ろ・き!! ショックの、ショックの小学校のクラス会でした。

2014年8月20日水曜日

東京の自然: 庭の草取り、今年のびっくり、去年のびっくり

在米時には帰国したとき、帰国後は必要に応じて草取りをしてるんですが、ときどき変わった生物に出会います。私は東京にいるんですけど、今年8月のびっくりは、3センチにも満たない子供のカエル(写真下)。上部中央右に円柱形のものが草の茎上にちょっと写ってますけど、これは土蜘蛛の巣の一部です。



池なんかなくとも育つカエルがいるのかしらと思い、さっそくネット検索したところ、どうもヒキガエルのよう。ガマガエルとも言われるとの事。これで子供の頃からのナゾが解けました: ヒキガエルとガマガエルってどうちがうのかなって思ってたんです。私が子供の頃、庭に池があって金魚を飼ってました。卵も孵して、家では世話をしてる私だけがどの金魚がどの子供っていうのがわかってたんです。金魚ってみんな顔が違うのです。...そういうわけでときどき10センチはゆうにある、おっきなガマガエルが暗くなると出現。鳴くとうるさく、さわるといぼができる等々のうわさがあったので、近くにいったことはありませんでした。

正確な名前はアズマヒキガエルで、英語ではEastern-Japanese Common Toadだそうです。

去年のびっくりは心底びっくりで、初め、風化したプラスチックの切れ端が「おふ」のように小石の上側にひっついているように見えました。

ゴミかと思って木の枝で払おうとしたところ、ゆっくりと動きだし、輪じゃなくてヒモのような、長さ15センチはある、見た事も無い明るい黄色の生き物。きしめんのように扁平で、よく見ると上に5本くらいの茶色の線が入ってるじゃないですか。ゾォーとしたんですけど、もしかして珍しい生物かもしれないと考え直して、草むしりした後の日差しを浴びて死んでしまってはと思い、お隣の草の茂みへポイッ。その後、ネット検索したところ、オオミスジコウガイビルという生き物で、東京でよく見られるそう。70センチぐらいまで育つ事のあるらしい。そんな大きいのは見たくないっと再びぞーっとしましたが、このあたりは猫が多いので、多分、食べられちゃったんじゃないかな。今年は見ませんでした。

なおオオミスジコウガイビルの写真はリンクされてるサイトからお借りしてきました。ゾーッとしたので写真とるどころではなかったんです。

2014年7月5日土曜日

台北故宮博物院特別展に白菜を見にいく

午後一時ちょっとすぎに上野の国立博物館についたんですけど、「翠玉白菜」だけ別部屋にあって2時間待ちと言われました。どうしようかなと思ってトイレに行って出てきたところ、「一時間40分待ち」と言われたので、列に並ぶ事にしました。

これから見ようとしてる人、本持参がお薦めです。館内敷地で涼しい風を心地よく受けながら七割がたは日陰で読書を楽しむ事ができます。

暗闇のなかで光をピカーッと反射し、濡れているようにキラキラ輝く「翠玉白菜」は、一瞬、石であることを忘れるくらいきれい。でもこの白菜、日本で見る白菜とちょっと違うので、見る人はそのことを知っておいたほうが、心休まるかも。



中国では日本とはちょっと違う、スリムな白菜もスタンダード種として店頭に並んでるようです。初めて見たのはサンフランシスコのチャイナタウンで、日本で見る丸型の白菜とは区別されました。白菜の白いところが日本のより薄くて丈は長く、ひしゃげた筒という感じで、その点では「翠玉白菜」は実物をかなり正確に描写してます。日本の丸型より見た目がちょっと貧相でしたが試してみたところ、丸型より甘みと野菜っぽさがありました。また縦長なので冷蔵庫にしまいやすく、米国居住中には中国型白菜を食べる方が多かったです。

展示されてた磁器、特に「白磁」の高度な技術には感心しました。

また刺繍には感心を通り越して仰天。海の波がうねっているさまを描いた刺繍の掛け軸がありましたが、絹の光り方という特性を知ればこそ作れる作品。中国風の着物を着た数十人の女性が数ヶ月という時間をかけて、一針一針刺してゆく様子が目に浮かびました。

最後の方に「永楽大典」。テストのために制作年号を覚えたのはこの本かと高校の歴史の時間を(とんだところで)思い出し、墨でくっきりと軽快に書かれた表紙のタイトルを見つめながら、ちょっと感動的な、数十年ぶりの過去との「再会」でした。

午後5時半頃館内から出てきたら、白菜待ちの行列がえらい短くなってたので、このあたりの時間帯に行くのが賢いかも。

2014年6月16日月曜日

新国立の「パゴダの王子」

一番印象に残ったのはサラマンダー(イモリ)の動き。黒白の縦縞模様のボディスーツで覆われた全身で、首を伸ばしたりかしげたり、フロアの起伏を上がったり下がったりする動きの一つ一つはインパクトありでした。頭髪を含めて顔の作りは不気味なんですけど、サラマンダーの持つパワーと、知的な用心深さ(実際にはイモリってインテリジェンスはあまり感じさせない生物ですけど。失礼、いもりさん)を感じさせる動きでした。そのため、顔が不気味という印象が薄れ、むしろ内に隠れてる知的さの証のように見えてきます。

第二幕でインドネシア楽器の「ガムラン」もしくはガムラン風の音が演奏に加わり、西洋楽器だけの音とは異なった世界、熱帯森林の奥深くに静かにしっかと存在する世界、その由緒正しさと美しさと落ち着きとを感じさせる響きでした。熱帯のジャングルに咲く、肉厚な花弁を持った香り高い花を連想させます。また、さくら姫の踊りのなかにバリ舞踏の動きが入るのがとてもよかったです。なんか心を落ち着かせる動きです。

同じく第二幕だったと思いますが、高齢王様の動きがなんとなく認知症っぽくて、こういうテーマをダンスに取り入れるのって大胆だけども現実的だし、面白いと思いました。別の日に見た友人は「リア王」がイメージの出所じゃないかと言ってました。



確かにこの「パゴダの王子(Prince of Pagoda)」というバレエ、さまざまな音楽や古典を思い起こさせる場面の連続です。例えばさまざまな国から来た王様達がさくら様に求愛する場面は「眠りの森の美女」の王子達の求愛の場面、またサラマンダーがさくら姫を伴って火の国、水の国を通過しながら試練を受けるところはまるで「魔笛」、立ち回り場面はシェークスピアの「ロメオとジュリエット」を思い起こさせます。という意味ではあまりにもいろいろな山場が短い間隔で詰まりすぎてて、慌ただしい感じがしました。もっとすっきりさせた方が踊りを引き立てると思うんですけど。振付けや舞台の作り方を変えるとぐーんと良くなるのかもしれません。舞台上部の大きな花はとくになくてもいい感じ、舞台のふちを額縁風に飾るトゲは意味がわからず、ちょっと目障りでした。

小野綾子さんのさくら姫はストーリーを語れたと思うし、湯川麻美子さんの目力は劇的でよかったです。

2014年6月6日金曜日

少子化と年金?、少子化とロボットじゃないの?

日本の少子化問題が、将来の年金額との関係で論じられてるのを聞いて奇妙感を感じました。2014年の年金生活者は月給の56パーセントを保証されてるが、今より出生率が下がった最悪の場合、2050年高齢者の年金は月給の34パーセントしか保証されないとのこと。でも少子化問題をこういう切り口で論じる奇妙感がふっきれず、「この切り口、どうして?」という疑問に。

でも、これは政府のディスクレイマー(免責事項)的意味もあると考えれば、なんとなく納得がいく。「政府は、2014年度出生可能世代に、あなたがたが子供を生まないと、その世代が高齢者になったときに年金が先細りすることを数字をもって公表し、警告したはず。あなた達にも責任はあるよ。」

少子化問題をいろいろな角度から切って分析するのは賛成ですが、いまだに余り論じられてないのはロボットの工場生産への導入との関係。

アップル社が「人件費の高くなった中国での生産を止めて、アメリカへ戻す」と発表したのは2012年頃。当時まだアメリカにいた私は、このニュースで「仕事が増える!」とアメリカ中が湧いたのをよく覚えてます。



確かに生産工場は南部のテキサス州かなんかに建設されたんですが、実際に生産が始まると、広い工場で働いてるのはロボットだけ。そのロボットを運転・管理するために工場のとなりのオフィスで働いてる人間はたったの四人。ロボットは休憩も休暇もいらないし、24時間ぶっ続けで働けるので、この人数は多分一シフトの人数だと考えると、「4人X3」で12人。警備員なんかを含めると20余人あたり! 地域住民に就業機会はほとんどなかったのです。

オックスフォード大学のロボット・リサーチ・グループに所属するマイケル・オズボーン博士(Michael Osborn, Robotic Research Group)によると、20年後のアメリカでは、現在の全仕事のうち47パーセントはロボットによるオートメ化が進むとの事、この数字は博士の母国でもあるオーストラリアでも同様だそうです。 

だとすると、日本でだって、同じ割合でロボット化・ソフトウェア化されると考えても的外れではありません。現在、日本の就業者数、つまり総仕事数は6400万。このうち47パーセントがロボット化すると、2034年の総仕事数は3400万になります。このような観点から少子化を考えると、少子化現象はこのような仕事数の減少を先取りしていることになり、傾向としては理にかなってる事になります。

ではどんな仕事がロボット化もしくはソフトウェア化されにくいか? これを考えるのか重要。

私が思うに、いわゆる女の仕事とされてきた低賃金労働の保母さんや幼稚園の先生、看護師さん、ヘアスタイリスト等は生き残るでしょう。

お医者さんや弁護士業は、けっこうな部分がコンピュータ化されると思います。他には何かな?

2014年5月27日火曜日

新国立劇場の「アラベッラ」

シュトラウスの「アラベッラ」を初めて見ました。

貧乏貴族の年頃の娘達の「苦境とロマンス」ドラマで、エンターテイメントが今のようになかった当時、このような求婚者の「品定め」的なドラマは実感があって人気があったんだろうと思います。でも現代の私には退屈でしたが、第三幕でのヒロイン、アラベッラと、彼女に許しを請うマンドリカの歌唱とドラマは力ありで、私は救われた!という感じです。

一幕、二幕では曖昧で優柔不断のアラベッラが、第三幕で婚約者のマドリンカからあらぬ疑いをかけられると、背筋をキッとのばして、「私を信じられないならそれまで」と、大金持ちだけども素朴なマドリンカに毅然と言い放ちます。アンナ・ガブラー(Anna Gabler)演じるアラベッラが急に一人の存在感ある人間に見えてきます。

マンドリカが、彼女の妹、ズデンカをアラベッラと誤解したのに端を発した騒ぎなんですけど、娘2人はお金がかかりすぎてとても育てられない貧乏貴族が世を渡っていく手段として、ズデンカをアラベッラの弟とし、ご本人も納得して弟として生きてるわけです。だけどズデンカもお年頃なので、愛してしまったマッテオと、当時では絶対ノーノーの「ベッドを共に」してしまいます(一夜だけは女の子になりたい!)。それが暴露して世間から葬られそうになるズデンカを、ただ一人、アラベッラが、「何の見返りも求めないを愛を貫くあなたに、私は教えられました。... あなたを心から尊敬します。」そしてジェーン・オースティンの「プライドと偏見(Pride & Prejudice)」のエリザベスなみの落ち着きと、威厳と、気品をもって、アラベッラの確信がどうどうと歌い上げられ、ドラマは最高潮。私(も観客)もすっかり彼女に共感。

新国立劇場のホームページからのスクリーンショット

マドリンカを演じたヴォルフガング・コッホ(Wolfgang Koch)はベテランらしく安定感がありました。賭け事で浪費する父親貴族の役目をした妻屋秀和さんがすごくよかったです。

初めから終りまで青色を中心とした舞台、とくにメインの青い色のトーンと青ばかりのコスチュームは好きになれませんでした。青っていう色、難しいんじゃないの。まだ舞台のデザインもあまりにホフマン物語の舞台と似すぎてて「またこのトーンか」っていう感じ。特にいただけないのは、アラベッラがマドリンカを初めて目撃する第一幕の窓(オフィスの窓みたい)、そして第三幕のユーモアも魅力も格式も無いホテルのフロントデスク。なんかモーテルみたい。

アラベッラが最初に登場するときの乗馬服(だけど話では乗馬でなくてオペラに行ってたようだったけど)、マドリンカが最初に登場するときのコートはちょっと面白く、また舞踏会ではお母様のドレスと白いケープがよかったですけど、後はなんだが目につかなかったです。席もよくなかったし、前に頭の大きい人がいたこともあったし、その上、字幕についてゆくのに精一杯だったからかも。

2014年5月14日水曜日

ルクレシア・ガルシアが新国立劇場デビュー

2012年にサンフランシスコ・オペラが「アッティラ」を上演したとき、アッティラの新婦、オダベラを演じたのがルクレシア・ガルシア(Lucrecia Garcia)。アニタ・ラチベリシビリ以来に見た、パワフルな新人ソプラノです。当時はエラく太っていて、前か後ろ姿なのか分かりにくかったんで、せっかくなので、なんとかして欲しかったんですけど、今日から5月30日まで、新国立劇場で演じられる「カバリア・ラスティカーナ」に出演するようです。

私は行けるかどうかわかりませんが、彼女は聞きがいがありなので、推薦です。アニタ・ラチベリシビリのほうがちょっとすごいとは思いますけど。でも私が聞いたのは2年前なので、今は見違えるように成長してるかも!

2014年5月11日日曜日

ああ、スマホが...!

象の写真をとっていると...

久しぶりにげらげら大笑いしました。リンクはこちら。 最後までエンジョイ!



2014年5月8日木曜日

最新の5分間ビデオ、「チェルノブイリの動物」

ニューヨーク・タイムズ紙が5月5日付けで「チェルノブイリの動物」という記事を発表。

チェルノブイリのアップデートにちょうどいいので、その記事と、記事中にある5分間ビデオをここにリンクしておきます

記事のリンクはこちら

サウスカロライナ大学のティモシー・ムーソーさん(Timothy Mousseau)は1999年から継続的にチェルノブイリを訪問、鳥類や昆虫、こうもりなどの観察を行ってきたそうです。当時はこのような事故はもう二度とおこらないと思い、個人的に観察していたそうですが、福島の原発事故以来、福島地域も観察対象に加えて公的な研究に変更

チェルノブイリ原発事故で人間が出て行ったあと、まるで「現代のエデンの園」のように自然界が復帰したと言う人がいるけれども、ムーソーさんによると、決してそうではないそうです。鳥類や昆虫、こうもりなどの観察をすると、チェルノブイリで「ホット地域」と呼ばれている高放射能地域では、動物種数は半減、考えられていたより自然の復帰は遅いとのこと。また鳥などでは外観から観察出来る腫瘍とかクチバシの変形などの異常発生率が、放射能汚染地域外と比べて、高い頻度で観察されるそうです。

またホット地域にいるある種の鳥は「自然淘汰」で放射能に対する適応を高めているのが観察されてますが、面白い事に、同種の鳥で放射能汚染の低い地域にいる場合は適応できず、DNAの異常が起こっているようなふしがあるそうです。

ビデオ中にも小さい赤い昆虫がでてますが、ホット地域に近づけば近づくほど、以前とは異なったパターンの羽柄が高い頻度で観察されるそうです。(下の写真)



また木の年輪を観察すると、1986年の原発事故以来、はっきりとした変化が見られるものがあるとのこと。下の写真では、1986年を境に(濃い茶の線がひいてあるところ)、年輪の色が異なるのがわかります。



去年、福島を訪問したとき、ムーソさんは蜘蛛の巣のパターンが少しおかしいのに気づき、以来、チェルノブイリでも、できるだけたくさんの種類の蜘蛛の巣の写真を撮り、研究室の学生に分析させているそうです。

2014年4月27日日曜日

新国立劇場の「ファスター」と「カルミナ・ブラーナ」

ディビット・ビントレー(David Bentley)の振付けを見に新国立劇場へ。

「ファースター」は、ロンドン・オリンピックがどうのこうのとか書いてあったので、どんなのだろって思ってたんですけど、振付けを創る気になれなかった振付けという感じ。ダンサーもしなやかにも優雅にもなりきれず、かといってアスレチックでもなく、私はと言えば、舞台とは切り離されたままで、居所無しでした。北島八郎の「祭り」のバックで踊りの振付けやダンサーの方が面白いというのが本音。

「カルミナ・バラーナ」については歌唱付きという事だけ知ってて、それに興味を持ったので、楽しみにしていました。

合唱から始まるんですけど、イントロの運命の女神のパフォーマンスの後、白くて長いドレスを着た3人の女性が登場。お腹あたりの線が変だな、ドレスのせいかなっと思わず座席で座り直して見ると、3人とも妊娠5ヶ月ぐらい?! それが、舞台いっぱいにはられた洗濯物の前を、細い体にお腹をゆるり、ゆるりと、ドレスのすそをふりながら入場してくるのが意表をついてて、また白い素敵なコスチュームのおかげ大で面白く、楽しく見え(この部分を演じたダンサーの皆さんに拍手!)、このとき初めて、リベレットの日本語訳がないのに気づき、残念に思いました。

新国立劇場のホームページからのスナップショット

すごく印象に残ったのは2幕目から歌いだした、萩原潤さんのカウンターテノールのクリアーではっきりとした声。アメリカでも何人かカウンターテナーを聞いた事がありますが、今まで聞いた中ではピカ一。新国立劇場はサンフランシスコ・オペラ・ハウスのサイズの約半分強なので、彼がサンフランシスコで歌った場合、どのくらい声が届くかはわかりませんが、是非、アメリカでオーディションに出て、世界のドアをノックして見て欲しいと思いました。

合唱に関しては、以前、ホフマン物語を聞いたときも思ったんですけど、声が若くてエネルギッシュでストレートでいいんですが、しばらく聞いてると、ただそれだけで、声のバラエティーがなく、単調。 サンフランシスコ・オペラ合唱団の場合、いろいろな年齢の人がいるので、声にもっとバラエティがあり、合唱全体の声に深さと幅があります。アメリカでは、年齢差別は憲法違反なので、もっと幅広い年齢層が合唱団にも入っているせいじゃないかと思います。それが喜びとか悲しみとかを表現する際、大きなプラスになってると思いました。

日本の仕事に対する年齢制限が、こんなとこまで響いているとういうことがあるとしたら悲しい事です。合唱団、せめて特殊事情を理由に、合唱団員の幅を広げてみるのはありなんではないでしょうか。

パフォーマンス後に、ディビット・ベントレーさんの作品のビデオがあり、彼が「パゴダの王子」というのを日本で、多分、新国立劇場バレエ団のために、制作したのを知りました。なんとなく、ケイス・マクシミリアンの作品に似たところがあるので、是非見たいと思ってます。