今回初めて思ったわけじゃないけど、東京文化会館だとバレエは見難いね。2Fドア1だったんだけど、首を横にして見るっていうのが不自然。
マリンスキーのとはちょっと違う、ボリショイの「白鳥の湖」を実際に劇場で観るのは初めて。今回のはボリショイでも新バージョンの「白鳥の湖」。
以前、マリンスキーで踊ってたユリア・ステパノワ(Yulia Stepanova)と、私は全く知らなかったアルテム・オフチャレンコ(Artem Ovharrenko)がオデッタ/オディールとジークフリードをやったんですが、軽く「しまった!」感がしました。
ユリアのオデッタはピシッと決まるところは決まり、顔の表情はドラマチック、腕の筋肉や手首の美しい動きがよかったんですけど、王子様の方はまだまだ見習い中という感じ。ストーリーの出だしの部分の、ジークフリードの誕生日パーティでは、こういう点はむしろフォーマル感として表現されてよいんですけど、恋に落ちた後からの演技力がまだまだで(ロシアのバレエとしてはの意)、せっかくユリアが表情でドラマを盛り上げようとしても、二人が感情的に寄り添わない感じでした。王子様があるレベルに達してないと、話が盛り上がらないんだねっということを、今回、強く感じました。
新制作では、悪い魔法使いのロットバルトが王子を思い通りに操るからみが、ストーリーに新たに付け加えられた大きな見せ場になってます。新振り付けは好きですが、王子様に演技力がある程度ないと、本人以外の何者かにコントロールされてしまう怪しさと悲劇性が盛り上がっていきません。またロットバルト役のダンサーに場面全体を引っ張るだけの強い牽引力があれば乗り越えられるのかも知れませんが、そういうのが中途半端で最終場面を迎えるた感じで、「えっ、今のが最後の場面?」と、拍子抜けしてしまう振り付けです。なので「感動」してカーテンが下がるのを見守ったというより、唐突感を感じました。
第二幕では、ユリアの、白鳥オデッタからガラリと変身した黒鳥オディールをみたい私としては、まだもうちょっとという感じでした。オディールに出会ってオデッタのことを忘れてしまう王子様も、違った感じを見せて欲しいんですけど、一幕と対して変わらない王子様でした。でもグランド・パド・トゥーでの後ろに足を伸ばしてのジャンプは足が高くまっすぐに伸びて美しかったし、ジャンプの姿勢も綺麗。第一幕の最後の王子様と二人の女性と踊る場面では、王子のルーティーンの踊りがかなり端折られてました。まだ筋力がないのかもね。
音楽はバイオリンの独奏部分とかはよかったんですけど、全体的になんとなく迫力がなかったです。会場が大きすぎるせいなのかも。会場が半分くらいのバークレーのゼラバックで見てたので、カーテンコールでパフォーマーご本人のちょっとはにかみが感じられるほどの近さでした。そういうところで首を前に向けて見たいね。今度、池袋で新しい劇場を作るようだけど、バレエが見やすいデザインにして欲しい。
スベトラーナ・ザハロワとデニス・ロドキンのが見られなくて残念でした。ボリショイで数年前に起きた硝酸バラまき事件以降、たくさんのバレーダンサーがいなくなってしまったようだけど、あの事件の影響がやっぱり色濃く後を引いているのを感じます。
ZZZ
バーナル・ハイツのファーマーズ・マーケットのきらきら光る野菜たち
2017年6月12日月曜日
2016年12月30日金曜日
ヨーロッパ貴族って贅沢?
ドラマなんかでヨーロッパ貴族の生活を見ると、朝は「朝食の間」でごはんを食べる。その後ピンクで統一されたファミリールームへ移り、家族のメンバーが部屋のあちこちに置いてある素敵な椅子やソファに座って本を読んだり、窓際で刺繍したり、おしゃべりをしたりするじゃないですか。NHKの「ダウントン・アビー」なんか見ててもそういう感じ。
「昼食の間」での食事後は薄緑が基調の居間に移って、また思い思いのことに時間を費やしてて、貴族って贅沢だなーと思ってましたが、最近、ひらめきました。「そうじゃない!彼らはノーマッドのように太陽を追って生活してたんだ」って!
数十の部屋がある大きなお城はガスや電気があるわけではない、ましてやセントラルヒーティングなんかないので、冬なんかものすごく寒いに違いない。薪暖房も部屋を暖めるには効率が悪そうなので、一番頼りになったのが太陽光に違いありません。だから1日のうち太陽が一番よく当たる部屋が朝のファミリールームとなり、昼の光が一番入る部屋が午後のファミリールームとなったに違いない。「朝食の間」や「昼食の間」もそんな理由で別々になったんじゃないでしょうか。
20世紀後半に入ると、お城は維持するのにお金がかかりすぎるので売却したり、お城はあっても敷地内に今風の家を建てて、普通のお家に住んでたりしてるじゃないですか。
こんな閃きがあったのは、光熱費代を削るにはどうしたら良いかを私なりに考えたため。
二階は夏は暑くてとっても居れませんが、冬は太陽の日を燦々と浴びてポカポカ。板の間がほとんどの一階は夏は涼しいんですけど冬は寒〜くてブルブル。床や壁等を暖めるだけでも時間と費用がかかります。そこでこの問題を解決するために、冬は二階中心の生活をすることを思いつきました。つまり、太陽を追う生活に変えたんです。全身に暖かい日の光を浴び、つい知らぬ間にウトウトしてしまう午後3時... 最高です。
来月の光熱費代が楽しみです。
PS: 「ダウントン・アビー」はサンフランシスコで見てたんですけど、日本では日本語に吹き替えられてるようなので残念!
「昼食の間」での食事後は薄緑が基調の居間に移って、また思い思いのことに時間を費やしてて、貴族って贅沢だなーと思ってましたが、最近、ひらめきました。「そうじゃない!彼らはノーマッドのように太陽を追って生活してたんだ」って!
数十の部屋がある大きなお城はガスや電気があるわけではない、ましてやセントラルヒーティングなんかないので、冬なんかものすごく寒いに違いない。薪暖房も部屋を暖めるには効率が悪そうなので、一番頼りになったのが太陽光に違いありません。だから1日のうち太陽が一番よく当たる部屋が朝のファミリールームとなり、昼の光が一番入る部屋が午後のファミリールームとなったに違いない。「朝食の間」や「昼食の間」もそんな理由で別々になったんじゃないでしょうか。
20世紀後半に入ると、お城は維持するのにお金がかかりすぎるので売却したり、お城はあっても敷地内に今風の家を建てて、普通のお家に住んでたりしてるじゃないですか。
こんな閃きがあったのは、光熱費代を削るにはどうしたら良いかを私なりに考えたため。
二階は夏は暑くてとっても居れませんが、冬は太陽の日を燦々と浴びてポカポカ。板の間がほとんどの一階は夏は涼しいんですけど冬は寒〜くてブルブル。床や壁等を暖めるだけでも時間と費用がかかります。そこでこの問題を解決するために、冬は二階中心の生活をすることを思いつきました。つまり、太陽を追う生活に変えたんです。全身に暖かい日の光を浴び、つい知らぬ間にウトウトしてしまう午後3時... 最高です。
来月の光熱費代が楽しみです。
PS: 「ダウントン・アビー」はサンフランシスコで見てたんですけど、日本では日本語に吹き替えられてるようなので残念!
2016年12月13日火曜日
2016年12月5日月曜日
印刷博物館の「武士と印刷」展、武者絵 etc
「武士と印刷」展は来年1月半ばごろまでやってるが、歌川国芳の「武者絵」は漫画ファンなら特にお勧め!
国芳殿が現代に生まれてたら、人気漫画作家になってたに違いない。彼の版画はドラマチックで奇抜、一枚ものでもすごいストリー性がある。
「もし今の人気漫画作家が江戸時代に生まれてたら、版画作家になってたのかも...」なんて思いながら見ました。
もう一つ、すごく驚いたのは、徳川家康は、当時新しいテクノロジーで、韓国から伝わった植字印刷技術を知っていたこと。
活字がいっぱい入った箱から一字一字、文字を拾って文章を組み立ててゆく印刷のやり方が植字印刷。
すべての武将が印刷というテクノロジーに興味を持っていたわけではない戦国時代、今川義元は植字印刷を積極的に取り入れ、利用していたのがわかってる。そこで人質として過ごした家康は、ここで植字印刷技術に触れてたと考えるのが自然。当時の「植字」は、コンピュータによるデスクトップ出版以前まで使用されていた金属製の植字ではなく、「木彫り」の漢字を一つ一つ拾って木枠内に並べて文章を組んで印刷した、韓国生まれの新技術。
家康が豊臣家を滅ぼす決定的な口実となったのは、方広寺の鐘に彫られた「国家安康」。家康という名をわざわざ真ん中で切り離すのは不吉といいがかりをつけたというのは有名な話なので私でも知っていたけど、こういう奇抜な言いがかりをどうして思いついたかについては、前から不思議に思っていた。木枠に並べられた木製植字を見て、「アアァッ!、家康は植字テクノロジーを知ってたからこそ、あんな戦略を思いついた!」と納得がいったのです。これ、もしかしていい線いってる洞察じゃない?
韓国に派兵していた豊臣家はこの印刷技術に触れてたと思うけど「侵略」が目的だったので、興味の対象から漏れてしまったのかもしれない。いや、もしかして知識はあったかも。だから「国家安康」「君臣豊楽」と、文章を立案した坊主にわざわざ書き入れさせたのかもしれない。
この後、漢字植字を使う印刷技術は、絵も文字も同時にデザインできる版画の自在性の前にすたれて行き、大量の新聞を発行する明治時代まで忘れ去られることになるんですが、皆さん、徳川家康と木製植字の展示を見る価値はあります。
国芳殿が現代に生まれてたら、人気漫画作家になってたに違いない。彼の版画はドラマチックで奇抜、一枚ものでもすごいストリー性がある。
「もし今の人気漫画作家が江戸時代に生まれてたら、版画作家になってたのかも...」なんて思いながら見ました。
もう一つ、すごく驚いたのは、徳川家康は、当時新しいテクノロジーで、韓国から伝わった植字印刷技術を知っていたこと。
活字がいっぱい入った箱から一字一字、文字を拾って文章を組み立ててゆく印刷のやり方が植字印刷。
すべての武将が印刷というテクノロジーに興味を持っていたわけではない戦国時代、今川義元は植字印刷を積極的に取り入れ、利用していたのがわかってる。そこで人質として過ごした家康は、ここで植字印刷技術に触れてたと考えるのが自然。当時の「植字」は、コンピュータによるデスクトップ出版以前まで使用されていた金属製の植字ではなく、「木彫り」の漢字を一つ一つ拾って木枠内に並べて文章を組んで印刷した、韓国生まれの新技術。
家康が豊臣家を滅ぼす決定的な口実となったのは、方広寺の鐘に彫られた「国家安康」。家康という名をわざわざ真ん中で切り離すのは不吉といいがかりをつけたというのは有名な話なので私でも知っていたけど、こういう奇抜な言いがかりをどうして思いついたかについては、前から不思議に思っていた。木枠に並べられた木製植字を見て、「アアァッ!、家康は植字テクノロジーを知ってたからこそ、あんな戦略を思いついた!」と納得がいったのです。これ、もしかしていい線いってる洞察じゃない?
韓国に派兵していた豊臣家はこの印刷技術に触れてたと思うけど「侵略」が目的だったので、興味の対象から漏れてしまったのかもしれない。いや、もしかして知識はあったかも。だから「国家安康」「君臣豊楽」と、文章を立案した坊主にわざわざ書き入れさせたのかもしれない。
この後、漢字植字を使う印刷技術は、絵も文字も同時にデザインできる版画の自在性の前にすたれて行き、大量の新聞を発行する明治時代まで忘れ去られることになるんですが、皆さん、徳川家康と木製植字の展示を見る価値はあります。
2016年4月10日日曜日
2016年2月29日月曜日
2015年12月11日金曜日
2015年マリンスキーの「ロメオとジュリエット」
東京文化会館の11月30日のに行ったんですけど、ウラジミール・シクリャーロフ君(Vladimir Shklyarov)が11月28日の「愛の伝説」で怪我をして休演、多分、アリーナ・ソーモワ(Alina Somova)も、そのさいの余波で不調になったのかもしれませんが、以降、ずっと休演。バークレー以来のお二人のダンスを、特にアリーナの成長が見られると思っていたので、すごく残念!
代役はジュリエットがマリーヤ・シュリンキナ(Maria Shirinkina)、ロメオがフィリップ・スチューピン(Philipp Stepin)。マリーヤ・シュリンキナのことは以前、これからの星として期待されてるような事、聞いた事がありますが、ロメオ役の人は今回が初めて。
マリーヤのジュリエットはまだ、一生懸命、役作りしてる最中という感じでした。もしアリーナがやっていたら、もっとのびのびと、そして多分違った衣装を着て出て来るのだろうと思いました。マリーヤのはあまりに目立たない衣装でした。全体に、主役としての華やかさというか、オーラが欠けてる感じ。しかし特に難もなく踊ってました。数年したら、マリンスキーで期待される一人になる人だろうと思います。
なんとなくぱっとしない配役陣中で全体をひっぱり、抜きん出て上手で、マリンスキーを救ったはマキューシオ役をやったアレクサンドル・セルゲーエフ(Alexander Sergeyev)。ひょうきんでウィットのあるマキューシオを、技術的にも素晴らしく、愉快そうにやってくれて、見てるのが楽しかったです。彼が白鳥の湖の王子役をしたのをみたことがありますが、こういう役の方がピッタリ。彼がジャンプしたとき、もしそのつま先が私のあごにでもぶつかったら、あごの骨は粉々になっちゃうんじゃないかと思うほどのバネ力でした。
配役としてぴったりと思ったのは、ティボルト役をやったユーリ・スメカロフ(Yuri Smekalov)。すごく個性的な雰囲気の人で、攻撃的でけんか好き、力にすぐ訴える役にぴったりでした。
マリンスキーの「ロメオとジュリエット」を通しで見るのは初めて。バレエとしてのロメオとジュリエットとしては、わりと原作に近いんじゃないのか、そういう意味では古典的と思いました。2人の情熱的な出会いと心の交流を緯糸に、生と死という永遠の大テーマを同じ比重でからませて縦糸にし、ストーリーを展開してるという感じでした。
私がよく見たサンフランシスコ・バレエの「ロミオとジュリエット」では、出会いの奇跡、2人だけの世界と愛の感動を描く「生きる」がメインテーマで、死という要素には話を展開するのに必要な以上は触れず、もっと現代的なストーリーの展開でした。古典的なマリンスキー版を見て、なぜ「ロメオとジュリエット」は、いろんな人が新たなバージョンを作りたくなるのか、納得しました。
ジュリエットの居城でのパーティ場面は、家父長(パトリアーク)とその一族男性が、ストラビンスキーの力強く運命的な音楽に合わせて、体の脇につけて真っすぐに延ばした手の掌を威嚇的に開いて出てくるサンフランシスコ・バレエの振付けの方が、いかにも家父長制権力を象徴してるようで、私は好きです。
ロメオが百合の花を教会の床に並べてジュリエットを迎えるバージンウォークのところは、なんとなく暗い場面が一瞬明るくなるようで、マリンスキーの方の演出がよかったです。
代役はジュリエットがマリーヤ・シュリンキナ(Maria Shirinkina)、ロメオがフィリップ・スチューピン(Philipp Stepin)。マリーヤ・シュリンキナのことは以前、これからの星として期待されてるような事、聞いた事がありますが、ロメオ役の人は今回が初めて。
マリーヤのジュリエットはまだ、一生懸命、役作りしてる最中という感じでした。もしアリーナがやっていたら、もっとのびのびと、そして多分違った衣装を着て出て来るのだろうと思いました。マリーヤのはあまりに目立たない衣装でした。全体に、主役としての華やかさというか、オーラが欠けてる感じ。しかし特に難もなく踊ってました。数年したら、マリンスキーで期待される一人になる人だろうと思います。
なんとなくぱっとしない配役陣中で全体をひっぱり、抜きん出て上手で、マリンスキーを救ったはマキューシオ役をやったアレクサンドル・セルゲーエフ(Alexander Sergeyev)。ひょうきんでウィットのあるマキューシオを、技術的にも素晴らしく、愉快そうにやってくれて、見てるのが楽しかったです。彼が白鳥の湖の王子役をしたのをみたことがありますが、こういう役の方がピッタリ。彼がジャンプしたとき、もしそのつま先が私のあごにでもぶつかったら、あごの骨は粉々になっちゃうんじゃないかと思うほどのバネ力でした。
配役としてぴったりと思ったのは、ティボルト役をやったユーリ・スメカロフ(Yuri Smekalov)。すごく個性的な雰囲気の人で、攻撃的でけんか好き、力にすぐ訴える役にぴったりでした。
マリンスキーの「ロメオとジュリエット」を通しで見るのは初めて。バレエとしてのロメオとジュリエットとしては、わりと原作に近いんじゃないのか、そういう意味では古典的と思いました。2人の情熱的な出会いと心の交流を緯糸に、生と死という永遠の大テーマを同じ比重でからませて縦糸にし、ストーリーを展開してるという感じでした。
私がよく見たサンフランシスコ・バレエの「ロミオとジュリエット」では、出会いの奇跡、2人だけの世界と愛の感動を描く「生きる」がメインテーマで、死という要素には話を展開するのに必要な以上は触れず、もっと現代的なストーリーの展開でした。古典的なマリンスキー版を見て、なぜ「ロメオとジュリエット」は、いろんな人が新たなバージョンを作りたくなるのか、納得しました。
ジュリエットの居城でのパーティ場面は、家父長(パトリアーク)とその一族男性が、ストラビンスキーの力強く運命的な音楽に合わせて、体の脇につけて真っすぐに延ばした手の掌を威嚇的に開いて出てくるサンフランシスコ・バレエの振付けの方が、いかにも家父長制権力を象徴してるようで、私は好きです。
ロメオが百合の花を教会の床に並べてジュリエットを迎えるバージンウォークのところは、なんとなく暗い場面が一瞬明るくなるようで、マリンスキーの方の演出がよかったです。
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