これ、終わっちゃったんですけど、久しぶりに笑わせられた展覧会。坂本恭平さんに80パーセント同感。
まず、しょっぱなの坂口さんの「履歴書」。これで心が温まりました。私も日本の「履歴書」に苦しめられてるんです。「履歴書」という「書式」の十字架にくくりつけられ、憤慨してます。
日本の履歴書は「レールの上に乗ってる人生」を線と空欄で表したもの。小学校から中学校へ、その後高校へ行ってから大学へ行き、卒業後、どっかの会社に就職をして退社する人生を歩むという前提から空欄の行数が見積もられ、割り当てられてできてるこのフォーム。ある意味でこれ、コンセプチュアル・アートとしては傑作。タイトルはもち、「レール上の人生」。
私はアメリカでは学位をとった大学の他に、アメリカの優れた成人教育の一環であるコミュニティ・カレッジ・システムを利用して、今まで少なくとも六つ以上のコミュニティ・カレッジに行き、さまざまーなクラスをとりました。またシリコンバレーで何回も入社したり退社したりしてるんで、日本式履歴書だと学歴も職歴もはみだして、収まりきれません。つまり日本の履歴書の書式は「日本の人生のレール」を乗ってない私のような存在を想定しておらず、そういう意味で拒絶されてるんです。
ロラン・バルト(Roland Berthas)の言葉に「表面を引っ掻くと必ず歴史があらわれる(Scratch the surface, and there's a history)」というのがあるんですが、それを思い出し、履歴書のフォームをじっと見ると、イメージとして見えてきたのが、中国の秦の始皇帝時代に始まったと言われてる(と思う)試験制度の科挙。日本の履歴書って科挙制度をいまだにひきずってるんじゃないの?!
私が日本を離れている間、クリームパンは進化し、電話ボックスは姿を消し、地下鉄はメトロと名前を変えて東京のアンダーグラウンドで単性繁殖しちゃったのに、履歴書のフォームはぜんぜん変化してないなんて不気味。それをおかしいとも思わないで、このインターネット時代に、10年一日のごとく従来の履歴書を使っている日本社会。「新しい発想が必要」とよく聞くけども、本当は変わって欲しくない人、困る人が多いんじゃないの?
写真: ワタリウムには黄色が似合う。
というわけで私は坂本恭平さんのしょっぱなの作品、「履歴書」に心が温まり、氏に愛情を感じたのです。
私が坂本式履歴書を書いたら、学校から帰って兄弟と遊んだり(猫をリンゴ箱でつかまえて上から水をかけたり、鼻くそを顕微鏡で見たり等)、友達と長ーい散歩にいったり、その帰りに道ばたから拾ってきた栓抜きを宝物入れに入れて保管したりなど重要事項なんで書き込みますが、坂本氏のにはそういう記述がないので、彼の子供時代は、子供だけで長ーい散歩なんて危険でできなかったのかもしれません。
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