今、日本に来てるんですけど、もやもやーとした不思議な心の体験をしてます。今回、滞在が長くて、足の指で池の表面をちょんとつついてみる以上に、日本に「深入り」してるせいだと思いますが...
「不思議な心的体験」って、クジラがどーっと海面に浮上する直前にできるうねりみたいなもの。「ムッ?」と心の中でつぶやくんですが、それで立ち消え。翌々日あたりに「ムッ?」っと思い出すんですけど、やはり、姿は見えぬまま。数日を経て、「ムムムッ、あれは何だったんだろう?」とうねりが立つことがあります。
不可解なうねり、その1:
銀メダルをとった男子400メートルメドレーの水泳のことで、「康介さんを手ぶらで帰すわけにはいかないって、皆で話してたんですよ」という選手の声がテレビから聞こえてきました。「何々?」と聞き耳を立てると、初の銀メダル獲得という快挙を成し遂げられたのはなぜかの説明のよう。私は冗談を言ってるのかって思ってしまいました。後で同じ部分が再放送されたとき、本当に説明のつもりかもと思いました。「今時の男の子って、意外に浪花節みたいなこと言うんだなー。」
同じ引用を次に聞いたのは、NHKの「心に残るオリンピックの名場面」とかいう番組。視聴者に一番、感動した場面をつのった時、視聴者がトップに選んだのが、この「康介さんをてぶらで帰すわけにはいかない」400メートル男子水泳メドレーのビデオ。ここで、私の心の中でガーンとうねりがたち、ついにクジラが浮上したわけです。
長い間、日本を離れてたので、私はこういう説明の仕方が理解できず、反応しなくなちゃってるんだなー。
そしたら一昨日、オリンピック関係のNHKの番組の中で、体操の内村航平が、同じようなテーマの説明を展開したのでハッとしました。彼が、団体予選でも団体決勝でも満足する結果を出せなかったのに、なぜ個人総合決勝で、ついに自分の力を出す事ができたのかという質問に答えた時です。
YouTubeから
内村選手: 当初の予定を変更して、鉄棒の演技から難しい技を一つ抜き、ミスある優勝より、ミスの無い美しい優勝を狙おうとコーチが提案してきましたが、ボクは決めあぐねてました。そんなとき、足をけがした山室選手と話をしたんです。
「山室さんは、けがで個人総合に出られなくなってくやしいというようなことは一言も言いませんでした。でも話し終わった彼の背中を見たとき、背中がくやしいって言ってるのが見えたんです。そのとき、ボクが金メダルを取れば、皆が喜んでくれる、それで皆が幸せになるって思い、難しい技を抜く決心がつきました」と、一瞬の迷いも無く語ったのです。
「康介さんをてぶらで帰せない」と「みなが喜び、ハッピーになる」は、どうも日本人なら共有できる「センチメント」であり、日本人をアチーブメントへ駆り立てる「動機」ともなる「ロジック」なのに気がついたんです。
じゃあ、長い事アメリカで暮らしてる私が、このローカルロジックになんでもやもやするのかなと考えたとき、「私」と私の「結果」の間に、「自分以外の人」が入るせいじゃないかと思いました。私にとっては、「康介さんをてぶらで帰せない」というような「先輩のためにがんばる」とか、「友人を『ハッピー』にするためにがんばる」が間に入ると、「異物」が「私」と「結果」に間に入ってる気がしますが、日本人だと気持ちが鼓舞されるんじゃないでしょうか。
オリンピックは特別の場だから、普通とは異なって、「他人」が「自分」と「結果」のあいだに入るのかもしれません。でもボルト選手の場合は「自分が伝説になりたい」と望んで、伝説になりました。
「康介さんをてぶらでは帰せない」という感じ方は、多分、日本人の心の「琴線」に響き、普通ではなし得ない事を成し得させてしまう、「物理力」とは違うけど、同じようなエネルギーを持った力。日本人は、日本特有の言語や、日本特有の食物を(好き、嫌いは別にして)共有してますが、このような感情のロジックも共有してるっていうことなんだと思います。私も日本にいたときは、このようなローカルロジックを持っていて、そんな説明に感動してたにちがいないと思いますが、長い間日本を離れているうちに、こういう感じ方を日常的に反復し、補強する機会がなかったので、だんだんと忘れてしまったんだと思います。