2009年7月5日日曜日

ヴェルナー・ヘルツォークの「最果ての出会い」


ヴェルナー・ヘルツォーク(Werner Herzog)の2007年の、「Encounters at the End of the World」、「最果てでの出会い」とかってに訳しておきますが、フシギに面白いドキュメンタリー。 

「ノーマル(普通)」とノーマルじゃなくなる境目を、南極という極限で迫ってみるということだと思います。

普通の科学ドキュチックに始まるこの映画、南極でトマトを育てている温室管理人(言語学専攻の元大学院生)をインタビューするころから、「なんとなく変わってるかな?」と、思い始めます。

先走っていうと、ドキュメンタリーの謎というか、頂点は、人間ではなく、ペンギンが演じているというか。

ペンギンはメスが卵を生むと、雄が卵を足元で暖めます。メスは海に戻り、エサを食いだめし、数ヶ月後にオスのところに帰ってきて、卵の暖め役を交代します。おなかの空いているオスは、待ってましたとばかりに、長い行列を作って、数マイル先の海に向かって行進してゆきます。

すると、氷原のど真ん中ではたと立ち止まり、ちょっと迷うような仕草をしてから曲がれ右をし、群れを離れて山の方へ行く、ペンギンが出てきます。山の向こうはまた山。ですから回れ右ペンギンは、自分の死に向かって、行進してゆくのと同じ。おい、お前、ちょっとおかしいよ。そっちいっちゃ駄目じゃない...!

南極では、このようなペンギンがキャンプ領域に入ってきたとき、人間は行動を一時停止して、ペンギンをやりすごすのがマナー。例え、それが、ペンギンの死を意味するとしてもです。

「なんであのペンギンは回れ右して、群れを離れていってしまったのか?」というナゾナゾを抱えて、映画を見終わった私は、翌日、会社で、ドナルドの机上にペンギンのぬいぐるみがおいてあるのに気づきました。

「ドナルド、『世界の果てでの出会い』を見た?」
「もちろんだよ。」
「ペンギンのこと、どう思う?」と聞くと、次のような答えが返ってきました。

「僕はペンギンを尊敬するよ。海にはペンギンの天敵がたくさんいる。サメやあざらしだ。それを知ってて海へ戻る。ビジネスもそれと同じだ。何が起こるかわからないけど、決断して飛び込まなくちゃならない。僕もいさぎよく飛び込めるよう、ペンギンの人形を机の上においているんだよ。」

なるほど。

とすると、あの回れ右をしたペンギンは、サメやあざらしに食べられてしまうのが嫌で、立ち止まり、皆が向かう海へ行くのをやめたのかもしれないじゃないですか。方向転換により、違う可能性を求めたのかもしれません。つまり、あのペンギンはアブノーマルでも、クレイジーでもなく、生きるための、インテリジェントな決断をしたことになります。私たち人間は、あの山の向こうには、またどてかい山が続いている事を知っていますが、回れ右ペンギンは知りません。そこが悲劇です。

全部書いてしまうと、映画がつまんなくなってしまうかもしれないのでここで止めておきますが、このペンギンの次に出てくる学者でこの映画を終わらせる、ヴェルナー・ヘルツォーク、映画に思考を語らせる、優れた映画作成者だと思います。

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